くらはしのクラシック日記

~倶楽趣博人(くらはしひろと)の随想クラシックの思い出、Cafe Klassiker Hrを受け継いだブログです~

2019年11月


2019.
11.26(火)19:00(現地ライブ OTTAVA

出演

エフゲニー・オネーギン:ボリス・ピンハソヴィチ

タチアーナ:マリーナ・レベカ

レンスキー:パヴォル・ブレスリク

グレーミン侯爵:フェルッチョ・フルラネット   ほか

ウィーン国立歌劇場合唱団、管弦楽団

指揮:ミヒャエル・ギュトラー

演出:フォーク・リヒター(東京オペラの森共同制作)

 

もうひと昔も前2008年に東京オペラの森で小澤征爾が指揮して上演された演出。これはNHKでも放送されて観たので、関心は出演歌手にある。

 

チャイコフスキーはバレエ音楽が一番でオペラの方はあまり好きでない。特にこの「エフゲニー・オネーギン」はメロディーの魅力とストーリーの封建的土俗性がマッチしてないように思える。

 

リヒターの演出は現代的造形的な舞台美術なので重苦しさはなかった。その点私の好みに合って良かったと思う。ただ音楽の方がそれに呼応するように、つまり演出に相応しいように軽さが出たかというとそうではなかった。

 

ギュトラーはドイツ人でどちらかと言えば重厚な指揮をする人だし、歌手も特に女声の方が全員声が太くて暗い感じがした。タチアーナ役のレベカはロッシーニでも評価のある人。だがここでは声でも演技でも、無垢で可愛い娘時代よりも落ち着いて貫禄のある侯爵夫人の方が良かったと思う。また男声の方ではドン・ファンのオネーギンと生真面目なレンスキーの性格的差異が判然としてないと思った。歌手では最後に1曲歌うだけだがグレーミン侯爵のフルラネットが最も素晴らしかった。

 

全体的にはそんなに凄いと思わなかった。普通じゃないかと思うが、自分の好みに合わないオペラだから余計そう感じたのかもしれない。

 

OTTAVAのことを聞いた時、映像とは言え本場のオペラが観られて凄いことだと思った。しかし毎週となると他に興味がある時は身が入らないこともある。年会費は払ったが何も全部観ることはないからこれからは好まないものはスキップしようと思う。

 

2019.11.24(日)16:00 愛知県芸術劇場コンサートホール

出演

ケイト・ロイヤル(ソプラノ)、アリョーナ・アブラモヴァ(メゾ・ソプラノ)

オリヴァー・ジョンストン(テノール)、ミラン・シリアノフ(バリトン)

スウェーデン放送合唱団、京都市交響楽団

指揮:広上淳一

曲目

フォーレ:レクイエム ニ短調 op.48(ネクトゥー&ドゥラージュ校訂)

モーツァルト:レクイエム ニ短調 K.626(ジェスマイヤー版)

 

ふたつのレクイエムを同時に聴くのはもちろん初めてである。過去にそういうプログラムがあったかどうか知らないが、スウェーデン放送合唱団だから一度くらいなら良いであろうと思う。

 

モーツァルト、ヴェルディ、フォーレの3大レクイエムの中年代から始めと終わりの2曲の演奏会。3曲とも優劣つけがたくどれも感銘を受けるが、死者を弔う音楽と考えると浄土教の我が家にとってはフォーレの方が相応しいように思う。第一、「怒りの日」に最後の審判を受けることもないし、天国に行けるよう神に向かって祈るだけでなく、死者に向かって祈る場があり親近感がもてる。つまりフォーレには通常含まれる「怒りの日」がないし、曲の終わりに出棺に際して死者に向けた言葉が付け加わっている。

 

今回のフォーレのレクイエムは通常の第3稿によるのではなく、それ以前のヴァイオリンがオケにない版であった。音楽的に地味になるが祈りの雰囲気がよく出るようになるし、モーツァルトと抱き合わせでは変化の際立つ方が良いと思う。

 

最も素晴らしかったのは勿論スウェーデン放送合唱団。清澄な声の美しさは比類がないし、それと同時にオケを凌駕するような迫力もある。弱音が特にきれいだから、テンポを遅くした静かなフォーレで一層その良さが生きたと思う。4人のソロ歌手は皆声がよく通り素晴らしかったが、中でもケイト・ロイヤルが良いと思った。ただ特に女声の方だがパンチが強いので宗教曲よりオペラに向いている感じがした。

 

広上淳一の指揮ぶりは失礼ながらここまでやるかと笑えてしまうこともあるがオケのコントロールは実に上手い。京響とは10年以上の付き合いだから相性が良いのだろう。

 

昔はレクイエムと言えば挨拶も拍手もなかったが今では普通のコンサートと変わりない。演奏は素晴らしく盛大や拍手が贈られたが、正直なところ聴いていて後半は集中力が多少途切れた。やはりレクイエムは1曲だけで他の曲と組み合わせた方が良いと思う。白身の刺身ばかり食べてるようで食傷気味なのは否めない。指揮者もその雰囲気を感じたのか、聴衆に「お腹一杯ですか」と言葉をかけていた。

 

 
 もう20年近く前になるがHP(ブログはまだなかった)を立ち上げて間もない頃、ベルリン・フィルとウィーン・フィルの初来日の思い出を書いたことがある。つい先日両オーケストラを聴いて当時の演奏会の模様を懐かしく思った。ここにその文を一部改めたがほぼそのまま再掲したい。プログラムは大部分処分してしまったが、これは残しておいたので写真とともに。(前回のベルリン・フィルにつづいて)

 

 

 1959年9月26日夜半、伊勢湾台風が東海地方を直撃した。名古屋の最大瞬間風速46メートルと過去に経験したことのない暴風と名古屋港の満潮が重なり、高潮による死者5000人を超す大災害となった。大学の校舎も傾いて授業が出来なくなった。学生がボランティアで救援活動に走り回った。政治運動だけでなくこういう活動もやっていたのである。

 

 その1ヵ月後にカラヤン ウィーン・フィルが来日した。東京、大阪、名古屋で9回の演奏会を開いたが、このうち2回は急遽災害たすけあいの特別演奏会になった。

 

 ウィーン・フィルは1956年にヒンデミットと共に小編成で来日しているが、フル編成ではこれが初になる。オーストリア政府派遣の初の世界一周演奏旅行の途中、日本に寄った。この時カラヤン51歳。帝王として歩き始めた頃である。

 

 プログラムも極めて意欲的であった。ベートーベン、ブラームスが中心ではあったが、モーツァルト、シューベルト、ヨハン・シュトラウス、それにベルガーの現代曲も入っていた。東京公演初日がブルックナー8番というのも、当時のプログラムとしては異例と言ってよい。現代曲やブルックナーは恐らくほとんどの人が初めて聴いたのではなかろうか。

 

 名古屋公演はモーツアルト40番、シューベルト「未完成」とヨハン・シュトラウスであった。(今から思うと最もポピュラーなプログラムを持ってきたようだ) この3日前にカレル・アンチェル チェコフィルが来て、きれいな音色の前座を聴いていたし、何せ2年前にカラヤン ベルリンフィルの体験があるので、もう衝撃はなかった。確かに音色は素晴らしく柔らかで優雅できれいであったが、曲目のせいもあり音量がそれ程大きいと思わなかった。私の席が3階ずっと後方(鶴舞にある名古屋市公会堂)だったので、指揮ぶりも細かい動きまでは見えなかった。しかしシュトラウスのラデツキー行進曲だったと思うが、カラヤンが聴衆に挨拶をして振り向くといきなり間髪をいれず棒を振り下ろした。それでも演奏はおかしくなかったから、楽員はわかっていたのかもしれない。なかなかのショウマンだと思った。

 

 ヨハン・シュトラウスはとても楽しかったが、モーツァルトとシューベルトはあまり共感出来なかった。当時からすでに好みが違っていたと思う。モーツァルト40番はテンポが速くてメランコリックな感じは持てなかった。シューベルトも映画「未完成交響曲」の先入観もあって、美しくはあったが寂しさとか悲しさは感じなかった。その頃よくレコードで聴いていたベームの「未完成」の方にずっと惹かれた。

 

 カラヤンの指揮を2回見てこの人はショウマンだと思ったし、音楽も良いことには違いないが深く心に訴えかけるものが少ないと感じた。それ以降カラヤンから離れて、最近までCDもほとんど聴かなかった。現代の指揮者と比較して聴くとまた少し違う印象を持つようになったが、聴き方も好みも歳とともにが変わってくるものである。

 

                           (初稿2002/10/1改定)

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 もう20年近く前になるがHP(ブログはまだなかった)を立ち上げて間もない頃、ベルリン・フィルとウィーン・フィルの初来日の思い出を書いたことがある。つい先日両オーケストラを聴いて当時の演奏会の模様を懐かしく思った。ここにその文を一部改めたがほぼそのまま再掲したい。プログラムは大部分処分してしまったが、これは残しておいたので写真とともに。(ウィーン・フィルは次回に)


 


 
カラヤン ベルリン・フィルが初来日したのは1957年のことである。この年シベリウスやトスカニーニが亡くなったと聞くと、随分遠い歴史時代のようであるが、まだ50年経っていない。この3年前、カラヤンはN響の常任指揮者として単独来日しているから驚きである。何と言ったって世界の帝王がである。

 

 当時のプログラムを見てみると驚くことばかりである。僅か20日足らずの間に、北は仙台から南は福岡まで8都市で15回もの演奏会を開いている。新幹線も高速道路もない時代だから、東京・名古屋間ですら夜行列車を使うことが多かった。日本へ来るにも、東西冷戦の最中でシベリア上空を飛ぶことは出来ないから、大きく迂回することになる。北回りでも30時間以上かかっていたと思う。その上での国内の強行軍である。100人以上もの団員がよくぞ耐えたものと感心してしまう。

 

 もっと驚くことには、プログラムが11種類も用意されていて、しかも曲目の重複があまりないのである。プログラムはいわゆる超名曲もあったが、ワーグナー、リヒァルト・シュトラウス、ストラビンスキーなども入っていて、今日とあまり違わないバラエティーに富んでいた。私が4管編成のオーケストラを聴いたのは、この時が初めてである。

 

 名古屋では市公会堂で2回の公演があった。ところがステージが狭くて楽員が収まりきらない。急遽木製の角材と板を使って客席の方へステージを拡げてあった。初めて見たステージいっぱいに並んだオーケストラの姿は壮観であった。(後で聞いたエピソードだが、練習中に蒸気機関車の汽笛が聞こえ、列車を止めろとカラヤンは怒ったそうである。)

 

 ステージ後方に日独両国旗を掲げ、演奏に先立って楽員が起立し(チェロは座ったまま)国歌を演奏した。はじめに「君が代」が、次にドイツ国歌が。日本外務省とドイツ大使館が後援していたこともあり、このスタイルはその後も継承され、2年後のウィーンフィルの時も、5年後のコンセルトへボーの時も同じであった。

 

 私の席は1階前方右寄りのところで、カラヤンの指揮がよく見えた。それまで見たこともない指揮ぶりで拍子など全然とっていないのである。その時はゼスチャーとしか思えなかったが、それでいて演奏はピタリと合うのだから不思議だった。

 

 私が聴いたのは初日の方で、ベートーベンの7番、モルダウ、タンホイザー序曲であった。各パートがあたかも1人でひいているかのようによく合っていた。私の席からよく見えたが、第1ヴァイオリンの腕の角度と動きがひとつの機械のように同期して上下していた。迫力も凄かった。それまで聴いたオーケストラは、クレッシェンドでフォルティシモになると音が汚くなってしまったが、それが全然変わらずにどこまでも大きくなっていった。

 

 ベートーベンの7番では第3楽章中間部で木管のゆったりしたテーマが出てくるが、カラヤンが首をちょっと左に傾けて両腕を胸の前で表情たっぷりに回していたのがとても魅力的であった。また終楽章フィナーレのコントラバスのうねりとフォルティシモの迫力には興奮の虜になった。今でも7番を聴くと自分で音を作って興奮してしまう。タンホイザー序曲もあの朗々としたホルンの響きと奥深い力強さに酔った。モルダウの激流の迫力といい、プログラムが感動というより興奮さすような曲を集めたものだった。しかし音楽でこれ程までに衝撃を受けたことはその後もない。

 

 この演奏会はまたひとつの区切りになった。それまで作品だけを聴いていたが、演奏による違いを聴くようになった。大学に入ってからは主にレコードでいろんな演奏を聴くようになり、その中で自分の好みも次第に固まっていった。

 

                                     (初稿2002/9/13改定)


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2019.11.15(金)18:30 (現地ライブ OTTAVA

出演

アリオダンテ:ステファニー・ハウツィール

ジネヴラ:チェン・レイス

ポリネッソ:マックス・エマヌエル・ツェンチッチ

ダリンダ:ヒラ・ファヒマ 

ルルカニオ:ジョシュ・ラヴェル

マーラー合唱団、ウィーン国立歌劇場バレエ団、関係エキストラ・オケ  ほか

指揮:クリストフ・ルセ

演出:デイヴィッド・マクヴィカー

 

ウィーン・フィルが来日中なのでご本家は臨時にやりくりしての公演である。留守番組も残っているからバロック・オペラならやり易いだろう。大劇場でのバロックはあまり観たいと思わないが映像なら問題ない。

 

このオペラは愛し合う者と片想いの男女二組の話が並行して進むから、タイトルを付けなければ演出によってどちらが中心になっても構わないように思う。本公演ではズボン役のアリオダンテとカウンター・テナーのポリネッソの男役対決が見どころと言える。一方相手方の女性の方は両方ともソプラノで、身分立場の違いはあっても同じような心理の表現をすることになる。オペラの筋は簡単だから歌手の力量が勝負になる。

 

ところが歌手陣は粒揃いであった。聴いた記憶のない歌手ばかりだが、どの人も熱演でさすが本場と思った。特に男役二人は素晴らしい。アリオダンテ役のハウツィールは身長はあるし、声は力強いし、感情表現でも2幕のアリアなど気持ちがこもって感動的であった。もう一人ポリネッソ役のツェンチッチは、カウンター・テナーの悪役はイメージ的に難しいと思えるが、素晴らしい迫力のある歌唱で演技も上手かった。

 

ソプラノの二人は役柄から言えばジネヴラよりダリンダの方が積極的性格と思うが、実際はジネヴラ役のレイスの方が声が太く、ダリンダ役のファヒマ は大人しく聴こえ逆のように感じた。歌唱はレイスの方が声の伸びが良かったと思う。ルルカニオ役のラヴェルの声も明るくて良かった。

 

それにオケが素晴らしい。リズムがはっきりしてたたみかけるような力強い演奏でバロック・オペラの長さを退屈させなかった。

 

演出はバックに映像を使ったきれいな舞台で衣装に凝っていた。オーソドックスで特にコメントすることはないが、ただバレエの多さには意味あるのだろうか。2幕は良いとしても1幕に多かったが、オペラの進行に何の関係もないのに音楽に合わせて後ろで踊っていた。単に見せるだけの娯楽か。

 

強烈に訴えかけるものはなかったが、ヘンデルの美しい旋律と技巧的なアリアを楽しむオペラであった。

 

 


2019.
11.13(水)19:00 愛知県芸術劇場コンサートホール

出演

ズービン・メータ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

曲目

ブルックナー:交響曲第8番 ハ短調(ノヴァーク版)

 

先週に続きブルックナー8番。これまた何も言うことができない深い感動に浸った。こういう幸福な奇跡が続いて起こるものかと思った。

 

メータは体調が優れず来月の予定もすべてキャンセルと発表されているので、来日しても指揮できる元気があるか危惧された。ところが演奏が始まるとその心配はなくなった。口に出すのは憚れるが、ひょっとしたらこれが最後の来日、最後のブルックナーと思ったかもしれない。杖をついてよぼよぼ歩き椅子に掛けての指揮であったが、以前と変わらずきびきびした明確な指揮ぶりで、楽員も渾身の演奏であった。

 

メータは決して奇を衒わずオーソドックスだから、若い頃はちょっと物足りない感じがないこともなかった。しかしこういう人が何か一つ気持ちがこもった時には、その普通の中に特別な思いを感ずるものである。あの東日本大震災の時、多くの音楽家がキャンセルする中をメータは急遽来日し慈善演奏会を行った。その時のベートーヴェン第9は忘れられない。ラグビーだけでない。気持ちが一つになった時は奇跡が起こるものである。

 

ベルリン・フィルは改めて言うことでないが化け物みたいだ。演奏が始まった時、ベルリン・フィルでなくベルリン・フィルのブルックナーを聴きにきたのに、そのあまりにも完璧な上手さに気を取られてしまうことがあった。しかしそれも最初のうちだけで次第にブルックナーの世界に引き戻された。ブルックナーの神々しさには技術的に上手い以上に魂を入れることの方が大事である。今回はその両方が兼ね備わった稀有な演奏であった。

 

これ以上ない感無量の時であったが、それをぶち壊すブラボーを叫んだものがいた。(ウィーン・フィルでもあった) 演奏が終わった後間髪入れず叫んでよい場合もあるが、TPOを心得てもらいたい。分からなければ他の人がするまで待つマナーが欲しい。もうひとつ。今回バルコン、P席はぎっしりなのに、3回正面にかなりの空白があった。行きたくとも諦めた人が沢山いるのに、これはチケット・カテゴリー配分の失敗である。

 

なお、コンサート・マスターは樫本大進でなく一番若いベンディックス=バルグリー。この人、指揮者だけでなくトランペットやシンバルの大事な入りにも目をやっていた。ヴィオラ・トップは清水尚子。

 

 


2019.
11.10(日)15:00 豊田市コンサートホール

曲目

モーツァルト:ロンド イ短調 K.511

       ピアノ・ソナタ第8番 イ短調 K.300d

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第28番 イ長調 Op.101

シューマン:ピアノ・ソナタ第2番 ト短調 Op.22

ショパン:4つのマズルカ Op.24

     ポロネーズ第6番 変イ長調「英雄」 Op.53 

(アンコール)

バッハ:主よ人の望みの喜びよ

 

ショパン・コンクールに優勝してから10年以上経つがまだ30代半ばの若手である。これまで名古屋地区でも演奏したことはあるが、ふさわしいホールでのリサイタルはこれが初めてと思う。バラエティに富んだプログラムだが、同じプログラムのフェニーチェ歌劇場でのリサイタルがYouTubeに流れているから何か意図をもって綿密に計画したものであろう。

 

ブレハッチはコンサート全体をひとつに考えているようであった。モーツァルトは軽やかに、ベートーヴェンは抒情的に、シューマンはダイナミックに、そしてメインのショパンに移った。目玉のショパンは作品自体がもともと抒情に富んでいるからでもあるが、特に変わったところがあるわけでなく普通に弾いてるように感じた。平板であったというのでは決してない。何時聴いても良いと思う演奏であった。これがお国ものというのであろうか。アンコールはひとりで静かに祈っているようで、これがブレハッチのピアノの本質ではないかと思った。

 

日本人と変らない華奢な体格で容姿も女性にもてそうな感じがする。音楽も女性のような細やかさがある。豪快な音でなくむしろ弱音が素晴らしい。どんなに弱い音でも、輪郭がはっきりししかもまろやかな美しい音である。豪華でも情緒的でもなく理性的な優しさのある抒情性と言ったらよいか、こういう人はソロ・リサイタルが絶対良い。慎ましく自己主張をし過ぎない微妙な変化を感じ取る日本人には好まれるピアニストだと思う。

 

最近コンサートの数は増えてもホールがそんなに増えない。従来なら名古屋で開くものが豊田まで流れてきてるような気がする。名フィルの豊田定期も出来たし、テレビ局主催のコンサートもあるようになった。この日も満席に近く、終わってから電車の駅に向かう人が多かった。

 


2019.
11.7(木)18:45 愛知県芸術劇場コンサートホール

出演

クリスティアン・ティーレマン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

曲目

ブルックナー:交響曲第8番 ハ短調WAB108(ハース版)

(アンコール)

ヨーゼフ・シュトラウス:ワルツ「天体の音楽」作品235

 

聴き続けたい交響曲として唯一残ったブルックナー、その中でも8番は特別のものである。ウィーン・フィルとベルリン・フィルが来日し、1週間をおいて共に8番を演奏するまたとない機会が訪れた。私にとって海外オケのコンサートは多分最後かと思うが、それがブルックナー8番とはこの上ないプログラムとなった。

 

ティーレマンは長老を除いて現在最も人気のある好きな指揮者、重厚壮大でドイツものにかけては特別だと思う。休止を入れたり、特異なアクセントを付けたりで一層の緊張感を創っていると思うが、中にはそれが嫌味と思う人もいるようである。しかし今回のブルックナー8番を聴いて、そういう感じは全くしなかった。

 

大河のごとく大きな起伏をつくりながら滔々と流れていく。大地が盛り上がってくるようなクレッシェンドは相変わらずの凄さだが、よくやるティンパニーの強打など驚かすほど飛び離れたものでなかった。むしろ第3楽章の弦やホルンの美しさの方が引き立った。全体に音楽が途切れることなく自然に続き、これぞ神がかったブルックナーと思った。

 

今回初めてP席に座った。初めて気付いたことに指揮者の一挙手一動を(目や指先の動きまで)つぶさに観ることができ、指揮者の意図もオケがどのように敏感に反応するかもよく分かって勉強になった。この様子を見るとティーレマンとウィーン・フィルの相性が良いと言われるのも納得がいく。

 

アンコールは今年のニュー・イヤー・コンサートを思わせるシュトラウスのワルツ。踊るワルツでなく音楽の美しさを引き出すティーレマンのワルツで、これはこれで面白かった。最近ティーレマンはオペラでもワーグナーやリヒャルト・シュトラウスだけでなく、プッチーニとかカールマンなども振っている。それも悪くないが、昔の巨匠のように焦点を絞った人が今日いたら、それはそれでまた貴重な存在になると思う。商業主義には乗らないが。

 

私の長い音楽履歴のなかで、バイロイトのリング以来の記憶に残るコンサートであった。興奮はしなかった。単にティーレマンとウィーン・フィルが素晴らしいと思うだけでもなかった。ただただ大きな宇宙的壮大さの中に自分がいた。初めてのヨーロッパ、ミラノのドウモの中にじっと座り込んだ自分を思い出した。

 

 


2019.
11.1(金)19:00 (現地ライブ OTTAVA

出演

マクベス:プラシド・ドミンゴ

マクベス夫人:タチアナ・セルジャン

マグダフ:シャホ・ジンシュー

バンクォー:ライアン・スピード・グリーン

ウィーン国立歌劇場合唱団、管弦楽団

指揮:ジャンパオロ・ビサンティ

演出:クリスティアン・レート

 

ヴェルディの音楽以上にシェイクスピアの主題にひかれる「マクベス」。前日に続いてのライブストリームだが、何が目玉かというと勿論78歳のドミンゴが出演することである。そのドミンゴが信じられない驚くべき素晴らしい歌いっぷりであった。

 

ドミンゴはテノールからバリトンに転向した。これで寿命は延びたであろうが、見た目も背筋がやや曲がって動きが遅くなり、声の衰えも否めない。それにしてもである。間もなく80歳に達する人が(先頃引退を発表したレオ・ヌッチより年長である)、これだけの声が出せ、長丁場のオペラを演じきるのは驚異としか言いようがない。マクベスは椿姫ジェルモンとはわけが違う。精神異常の狂気、見せかけの強さと不安に慄く弱さを表現しなければならない難役である。セクハラ騒動でMETマクベスを降ろされた鬱憤を晴らすような快演であった。

 

80歳がこれなのだから共演者も張り切らざるを得ない。声は無論若い方に張りがある。マクベス夫人のセルジャンはロシア人共通の強い声で悪役に挑んだが、容姿からドスが効くところまではいかず無理してるようにも感じた。しかし終盤、罪の意識から精神異常をきたす場面は良かった。いろいろ話題のあるアメリカ黒人のスピード・グリーンは堂々として迫力のある素晴らしいバスである。マグダフを演じたのは中国人ジンシュー、まだ30前らしいが凄い美声の持主である。米中ロの3大国歌手が親世代のドミンゴを盛り上げた。

 

ビサンティのきびきびした指揮も素晴らしく、ヴェルディ・オペラそのものといった感じがした。

 

読み替えなしの現代的演出。周囲をコンクリート壁で囲み、階段をつけたりベッドを置いただけである。人間の業とか精神心理が主題のオペラでは、こういう余分なものを排したシンプルな舞台が相応しいと思う。色彩も暗い内容に合わせたモノトーンで、血の赤が目立つ。また幻想の魔女や亡霊が出る場面が多いが、衣装や舞台上の動きを理性的に様式化したのも良かったと思う。

 

カーテンコールは延々と続いた。楽員がすべて引き上げた後も、4人が手を振ってもうこれでの合図を送っても、止むことなく何度も何度も呼び返された。こんなに長いカーテンコールは私の経験でも少ない。やはりドミンゴへの声援だったのであろう。

 

 

 

 

2019.10.31(木)19:30 (現地ライブ OTTAVA

出演

ウェルテル:ヴィットーリオ・グリゴーロ

アルベール:アドリアン・エレート

シャルロット:エレーナ・マクシモーワ

ソフィー:イレアナ・トンカ(ダニエラ・ファリーは降板)  ほか

ウィーン国立歌劇場合唱団、管弦楽団

指揮:フレデリック・シャスラン

演出:アンドレイ・セルバン

 

最大の関心はセクハラ騒動のグリゴーロが出るかどうかであった。予定通り出演し、大熱唱で大喝采を浴びた。

 

セクハラとかパワハラとか騒ぎ過ぎと思う。良いことでは決してないが、時に不満をぶつけるきっかけに利用されてるような気もする。大体先頃のロイアルオペラ日本公演でも、訴えたのは直接の被害者でなく、それを見た合唱団員だったという。直接舞台を観たわけでないが、想像するにスポンジを入れた妊婦衣装の演出をばらす意味ではなかったか。スカラ座でも予定通り出演したというから大したことではなかったのだろう。

 

この演出はすでに観ているし、マクシモーアとエレートも3年前の新国「ウェルテル」で聴いた。だから目的はグリゴーロである。そのグリゴーロ実に素晴らしかった。声は美しいし、よく伸びるし、完全に役に溶け込んだ迫真の演技であった。特にオシアンの歌とフィナーレの場は凄かった。ここまでやってくれるとプレミエ、レパートリーなど関係ない。

 

シャルロットのマクシモーワも素晴らしい。メゾでも若い役だから太い声のシャルロットはいただけないが、マクシモーアは声に清純さが残っていて適役だと思う。アルベール役はいつもエレートに当たってしまうが、確かに役柄によく合った真面目な声と容貌である。だが劇中人物も役者も可哀そうに思えてしまう。フィナーレの演出でシャルロットを見据えた後、振り返って足早に消えるアルベールはなかなか良いと思う。ソフィー役のトンカは声はきれいだがもう少し子供っぽい方が良いと思う。

 

指揮のシャスランはたびたび日本にも来ているが、この人のフランスものは素晴らしい。ネチコチしないすっきりした詩情とドラマがあり、オケとの息もよくあって起伏のある流れを作っていた。

 

カーテンコールでグリゴーロは<I   U STEFI !!!> (I love you STEFI!!!) と手書きしたシャツで出てきた。STEFIって誰だろう? もし息子ならいいパパでないか。

 


 




































 

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