くらはしのクラシック日記

~倶楽趣博人(くらはしひろと)の随想クラシックの思い出、Cafe Klassiker Hrを受け継いだブログです~

2021年03月


2010.4.11 (フィルハーモニー・ホール ライブ収録)
出演
福音史家:マーク・パドモア
イエス:クリスティアン・ゲルハーゲル
ソプラノ:カミラ・ティリング、メゾソプラノ:マグダレーナ・コジェナー
テノール:トピ・レティプー、バス:トーマス・クヴァストホフ
ベルリン大聖堂少年合唱団、ベルリン放送合唱団、ベルリン・フィルハーモニー交響楽団
指揮:サイモン・ラトル
演出:ペーター・セラーズ    

イースターの時期になると毎年マタイやヨハネの受難曲が流れる。キリスト教徒でなくとも敬虔な祈りの気持ちは変わらないしドラマティックな内容に感動するところもある。この映像は評判になった演技付きの稀な演奏で、ベルリン・フィルが期間限定でDCHに公開している。

演出家ペーター・セラーズはドラマティックなオペラでなく宗教的雰囲気を残す儀式的セミ・コンサートにした。オーケストラを上手寄りに少しずらし、前方中央に棺や祭壇を想わせる、また下手と奥には教会の椅子を想わせる白い箱が置かれている。出演者は全員がミサに出かけるように黒一色の衣装で参加する。最も注目されるのは福音史家がイエスの黙役となることである。イエスがステージ脇2階の客席で歌う時福音史家はイエスに代わって演技する。演奏は合唱が棺の周りに集まるところから始まり、そして同じように集まり祈りながら終わる。深い感動が込み上げてくる。

福音史家のマーク・パドモアが大活躍で、ラトルとはバーミンガム時代から何度も歌っていると言う。無理のない自然な歌い方は福音史家に相応しい。歌わない時も演技で出ずっぱりになり激しい動きはないがカメラが表情を捉えるので気が抜けない。ゲルハーゲルのイエスも坦々としてるようだが動じない説得力があり人間的であった。他の歌手も素晴らしい人ばかりで、個性の強い人がいなかったから余計統一感があり感動的であった。

パユ、マイアー、大進、ヴィオラ・ダ・ガンバ(名前分からない)のソロをはじめオケの良さは言うまでもない。それ以上に素晴らしかったのが合唱で例えようがなく美しかった。ラトルは遅めのテンポで曲間の間を取った指揮で緊張感が凄かった。激しい叫びもあったが多くは悲しい叙情に満ちた演奏で身動きできなかった。3時間半は長かったが感動の深さは会場の静寂が終演後1分も続いたことが物語っている。パドモアはじめ同じキャストでバーミング、ザルツブルク、ベルリンと何度も続いていることで気心が通じ並外れた演奏が出来たと思う。因みにラトルはこの後2013年にもほぼ同じメンバーでもう一度演奏している。

ラトル自身ベルリン・フィルと演じた最も重要なもののひとつと言ってるように渾身の名演であった。



2015.5.8 (ライブ収録)
出演
ドン・パスクワーレ:ミケーレ・ペルトゥージ
エルネスト:ファン・ディエゴ・フローレス
マラテスタ:アレッシオ・アルドゥーニ
ノリーナ:ヴァレンティナ・ナフォルニタ  ほか
ウィーン国立歌劇場合唱団、管弦楽団
指揮:ヘスス・ロペス・コボス
演出:イリーナ・ブルック

この「ドン・パスクワーレ」は昨年の配信を都合で観逃した。2015年新制作時のもので、ご本家イタリアの男声名手陣に当時まだ27歳の新進ソプラノが加わった魅力的なものだった。期待して観たけれど残念ながらハプニングが起き100%堪能というわけにはいかなかった。

他愛もない話だから興味は歌唱と演技しかない。中でもフローレスがどんな声を聴かせてくれるか、どんな面白い演技表情を見せてくれるかであった。ハプニングはそのフローレスに起きた。1幕が終わったところでマイアー総裁が出て、ドイツ語で分からないがフローレスの名前は聞きとれた。多分調子が悪い云々と推測したが案の定2幕早々のアリアで高い音を出さなかった。何かいつもの勢いがないように感じていたが、そこは本場ヨーロッパだから鑑賞に耐えないようなことはない。ちょっと物足りなかっただけである。

ノリーナを演じた若いヴァレンティナ・ナフォルニタはモルドヴァ出身でウィーンを本拠地にしている。明るくきれいな声と抜群のプロポーションの美人だから人気が集まるのも分かる。その特徴を生かしてパミーナ、ツェルリーナ、アディーナなど軽い性格の役柄を中心に活躍している。早熟だが演技も初心なところから、色っぽい仕種、猛女振りまで面白く演じていた。METの記憶に残るネトレプコのノリーナ程の存在感は勿論ないが、彼女だってデビュー当時は初々しかったから、これから先が長くどう変わっていくか興味のあるところである。取り合えずダニエラ・ファリーの後継か。

タイトルロールのミケーレ・ペルトゥージとマラテスタ役アレッシオ・アルドゥーニがフローレスの分を十二分に補った。アジリタの二重唱など限界まで速く見事なものでこの日の白眉であった。

このオペラで演出に工夫を凝らすところはそれほどないと思う。オープン・カフェとバー付きの部屋は小銭の成金を想わせるがこれとてどうってことはない。プレミアで演技面の指図があったかと思うが即興的な面白さはなかった。

歌唱は良かった。だがその分バカ騒ぎの芝居としては大人しく、多少崩れた歌唱でももっと自在にノリノリになった方が楽しかったと思う。



2021.3.21(日) (バイエルン州立歌劇場ライブ収録)

出演
マルシャリン:マルリス・ペーターゼン
オックス男爵:クリストフ・フィシェッサー
オクタヴィアン:サマンサ・ハンキー
ゾフィー:カタリーナ・コンラージ
ファニナル:ヨハネス・マルティン・クレンツレ  ほか
バイエルン州立歌劇場合唱団、管弦楽団
指揮:ウラジミル・ユロフスキー
演出:バリー・コスキー

バイエルン州立歌劇場の新制作「ばらの騎士」は無観客ストリームで上演された。レパートリーなら中止もありだが、せっかく用意した舞台装置をそのままお蔵入りさせるのは忍びない。ましてや注目の演出とあっては尚更である。普段演出が興味でオペラを観ることはないがバリー・コスキーは例外で、この人の創り出す舞台は新しい解釈、アイデアが奇抜、その上美しいから興味津々になる。予想通り素晴らしかった。

バリー・コスキーは夢の話として舞台化した。すなわちマルシャリンはうたかたの恋、ゾフィーは結婚、オックスは色と金、そしてファニナルは名誉とそれぞれ夢を見ているのである。 オクタヴィアンはタイトルローラだが立場としてはむしろ脇にいる。コスキーがそれぞれの夢を皮肉ってるところが面白い。全体として18世紀華麗なウィーン貴族社会の雰囲気を残しつつ現代社会に置き換えて今日的欲望を面白く描いた感がある。ちょっとオペレッタ的な軽さがあると言えるかもしれない。

バリー・コスキーは黙役としてその夢の案内人を登場さす。その姿はやせ細ってよぼよぼした老人のキューピットである。1幕戯れの場は笛を吹くパパゲーノで、2幕は使者を乗せた馬車の御者として、3幕芝居にした結末ではオペラのプロンプターとして中心的役割を演ずる。間もなく生を終えるようなキューピットでは夢は暗い。馬鹿なことはおよしと言ってるみたいである。

もうひとつは時計である。事が起きる時間を示すと共に時の移ろいを表していると思う。冒頭とフィナーレでの扱いが面白く、長針と短針が逆向きに回っているところから始まる。振り子からマルシャリンが悩ましい姿で現われ手だけ見せるオクタヴィアンとじゃれあっている。現実でないことは分かるが、その後かもめの舞う楽園に老キューピットが現われて夢とはっきりする。2幕はゾフィーの目覚ましの音、3幕は鳩時計かっこうの声で始まる。そしてフィナーレは老キューピットが時計の針を取り外し夢が壊れることを示して幕となる。ただオクタヴィアンとゾフィーが手をつないで出てゆくところだけは祝福される夢であろう。

舞台も美しい。熱帯植物が繁る愛の楽園、ルードヴィヒ2世を想わせる銀の2頭立て馬車、バロック風の絵画で埋め尽くされた部屋、オックスを攻め立てる劇場の造り、等々適度に暗いメルヘン調或いはアニメ調で美しかった。

歌手陣は歌唱演技とも役柄に実に上手く収まっていた。マルシャリン役マルリス・ペーターゼンはちょっと潤いがないかもしれないがこの演出では明るい声が現代的で理想的と思うし、歌唱もモノ・ローグやフィナーレでは感情が籠って素晴らしかった。第一透ける衣装できれいに見えるソプラノはそういない。オクタヴィアン役サマンサ・ハンキーは声も容姿も女性的でズボン役よりも仮装した女給の方が美人さが目立つくらいだが、この舞台では宝塚歌劇みたいで良かったと思う。若いカタリーナ・コンラージはロール・デビューとのことだが、小柄で可愛い声がゾフィーによく合っていた。オックス男爵は普通なら太ったおじさんがエッチを利かすことが多いが、クリストフ・フィシェッサーは体も締まって演技は控え目、きっちりした歌唱は今の時代に相応しかったと思う。ファニナル役ヨハネス・マルティン・クレンツレも父親というより現代のビジネスマン的に振舞っていた。その他テノール歌手とか召使なども面白い架空の演技をして良かった。

ウラジミル・ユロフスキーのオケも演出の雰囲気によく合っていたと思う。豊潤華麗ではないがコロナで編成を縮小したか明解な音でやや室内楽的響きであった。その方がメルヘン調アニメ調舞台には却って相応しかったと思う。ただ個人的好みとしては「ばらの騎士」は華やかな大音響で聴きたいと思うが。

バイエルンの「ばらの騎士」は50年近くオットー・シェンクの演出を使い続けている。それだけ歴史的名舞台だから捨てるのはやめて欲しいと思う。しかし鬼才バリー・コスキーも素晴らしいので完全に置き換えるかどうかは別にしてもメインになるであろう。4月19日までのオンデマンドなので時間があればもう一度観たいと思う。ただし字幕がドイツ語のみなのは残念。 



2011.7/29~8/7 (ヴェリコ・タルノヴォ・ツァレヴェッツ要塞ライブ収録operavision)
出演
アッティラ:オーリン・アナスタソフ
エツィオ:ヴェントセラフ・アナスタソフ
オダベッラ:ラドスト・ニコラエワ
フォレスト:ダニエル・ダムヴァノフ  ほか
ソフィア歌劇場合唱団、管弦楽団
指揮:アレッサンドロ・サンジョルジ
演出:プラメン・カルタロフ

「アッティラ」はヴェルディの中でも滅多に上演されない演目で、国内では若杉弘のびわ湖とフェニーチェ歌劇場来日公演の2回ぐらいしかない。それを中世遺跡の屋外でやるというから面白い。

ヴェネツィア共和国が海の中に都市を築く原因になったフン族の侵入を題材にしている。フン族の王アッティラとローマ帝国将軍エツィオは共に実在の人物だが、物語がどこまで史実に基づいているかははっきりしない。オペラの話より前にアッティラのフン族とエツィオ(エティウス、アエティウスとも呼ぶ)のローマ帝国(実際は分裂後だから西ローマ帝国)は戦闘を交えエツィオが勝利している。それを思うとオペラの中の二人のやり取りも分かりそうな気がする。アッティラが婚礼の祝宴で急死したのは事実らしいが、殺されたかどうかは分かっていない。急性の病気とも言われている。

このオペラの初演は侵攻を受けたアクレイリア今のベニスのフェニーチェ歌劇場である。一方この公演が行われたヴェリコ・タルノヴォはかってのブルガリア帝国の首都で、フン族の侵入より遥か後のことだからアッティラの歴史とは関係がない。遺跡で行うに相応しいオペラだが、残った壁をバックにした特設会場で、ヴェローナ・アレーナ音楽祭のように毎年行われるものではないようだ。

オペラは全く楽しめなかった。歌手は胸にマイクを付けて歌うがその声がガンガン響く。もともと威勢のよいオペラではあるが、それにしても怒鳴ってるようにしか聴こえなかった。PAの調整がまずいのかもしれないが普通あり得ないことに、声の方がオーケストラの音を消す感すらある。それだけでない。特設ステージの床を駆ける雑音があまりにも酷い。こんなことテストすればすぐ分かることである。10年前の収録でDVDも販売されているというのにどういう神経かと思う。

ヴェローナ音楽祭は歌手がマイクなしでもよく聴こえるし、メルビッシュ湖上音楽祭は口元につけているが声のバランスはとれている。だから技術上の問題と思う。会場で聴いたら別の印象を持ったかもしれないが珍しいオペラだったのに楽しめず残念であった。



2021.3.19(金)18:45 しらかわホール
曲目
<オール・モーツァルト・プログラム>
ピアノ・ソナタ 第7番 ハ長調 K309
フランスの歌「ああ、お母さん聞いて」による12の変奏曲 ハ長調 K265
ピアノ・ソナタ 第16番 ハ長調 K545
6つのウィーン ソナチネ 第1番 ハ長調 KV439b
ピアノ・ソナタ 第1番 ハ長調 K279
ピアノ・ソナタ 第10番 ハ長調 K330
(アンコール)
ピアノ・ソナタ 第4番 変ホ長調 K282

いま日本で最もホットなピアニスト藤田真央がモーツァルトのピアノ・ソナタ全曲演奏に挑む。若い内に重点指向するピアニストはむしろ少数派と思うし、聴く方も滅多にない機会だから関心が湧く。

2017年18歳でクララ・ハスキル国際コンクール優勝、19年チャイコフスキー国際コンクール2位という輝かしい成績で、こうなるとショパン・コンクールはどうなってるのだろうかと気になってくる。彼の音は外国人にはない日本人的和を感じさせるから、その点他との差が目立つ利点もあると思う。

真央(と呼びたい)の音は柔らかくすべすべした赤子の肌のようである。弱音が特に美しいが強音でも荒武者の轟音ではなく四つに組んだ力士のような力強い音である。鮮やかなテクニックで驚かすタイプではなく、音楽の美しさを原色でない微妙な中間色で淀むことなく描き出す情感豊かな個性を持っている。それはモーツァルトとかショパンのような感性がものを言う音楽で一層生きてくると思う。

真央の風采も音楽そのものである。ステージに現れる時からすでにピアノの前にいるように前屈み気味で静かに歩き、会場をあちこち見ながら可愛く軽く挨拶する。椅子に掛けると間髪を入れず即弾き始め、精神集中の時間など全くない。楽章間でも一呼吸有るか無しかで進んでしまう。ステージに入って弾き出るまで動きに途切れるところがない。

さて初回は「清らかな始まり」と題してハ長調ばかり集めたプログラムであった。真央の感性に任せて速いテンポで清らかな流れの如く滑らかに一気に弾き終えた。構えたところが全くない自然体の演奏、若い純粋さをいかんなく発揮した演奏、真央の音楽性が顕著に出た素晴らしい演奏であった。5回の初回としてシリーズ一連で考えれば面白い組み方であったが、1回のコンサートとして変化に乏しい感がないことはない。だがモーツァルトにはベートーヴェンのピアノ・ソナタのような大きな作風の変化がないのである程度やむを得ないことかもしれない。全体としてどういうストーリー建てでプログラム編成をするかも興味のあるところである。

次回は半年後の秋の予定。コロナのワクチン接種が順調に進み変異ウィルスにも効くとなればその頃にはかなり収まっているはずであるが。




2020.9.27 (ライブ収録)
出演
フィリップ2世:ミケーレ・ペルトゥージ
ドン・カルロス:ヨナス・カウフマン
ロドリーグ:イゴール・ゴロヴァテンコ
大審問官:ロベルト・スカンディウィッツィ
エリザベート:マリン・ビストレム
エボリ公女:Eve-Mand Hubeaux  ほか
ウィーン国立歌劇場合唱団、管弦楽団
指揮:ベルトラン・ド・ビリー
演出:ペーター・コンヴィチュニー

「ドン・カルロス」の原典版は観たことがないし、コンヴィチュニーの演出がどこまで脱線(?)してるかに興味があった。コロナ禍一時の収まりの中であったが、カウフマンがタイトルロールと言うことで売り切れだったそうである。

2004年の新制作だがその後新たな演出が入って言わば復活プレミアに当たる。あまりに評判が悪ければ復活しないはずだから、案の定これはむしろオーソドックスと思った。舞台は一場面を除いて何もなく周囲を囲っただけ、衣装もモノクロである。人間の心理だけに絞った手法はよく見るがこれは徹底している。5幕フランス語版で省略されることの多いバレエ部分を「エボリの夢」と題した寸劇に置き換えている。中身はドン・カルロとエボリが夫婦でフィリップ・エリザベート夫妻とホームパーティを開く。その準備中にエボリがチキンを焦がしてしまいドン・カルロがピザの注文を出すという些細な出来事を見せている。そう考えるのは良いとしてもそれ以外の本編が重厚だからバランスが取れない。(だから夢ではあるのだが) だが良いところもある。フィナーレでカール5世の亡霊がフィリップ2世にビンタを食わしドン・カルロとエリザベートを連れ出す。現代に生きているとしたらこの結末は納得できるし、夢の場面の雰囲気とも合致する。

歌手陣ではスターがカウフマン一人でも皆充実していて素晴らしかった。カウフマンの声の強さは抜きん出てアリアがなくともタイトルロールの存在感は十二分にあった。歌唱、演技ともさすがで、この人はヴェルディの方がワーグナーよりずっと良いと思う。若い人ではエボリ公女を演じたEve-Mand Hubeaux 。はじめはベテランに交じって緊張したか固さが見えたが、後半は哀れみが出て素晴らしかった。セリフ通りの美貌だから夢やフィリップ2世との黙役演技でも見栄えが良かった。フィリップ2世のペルトゥージは威厳よりも苦悩の方が強く出ていた。4幕の有名なアリアは声を抑えしんみりした心情をよく歌っていた。大審問官のロベルト・スカンディウィッツィはよぼよぼした身動きと凄味のある声で権力者を上手く演じた。またイゴール・ゴロヴァテンコのちょっと弱そうに見えるロドリーグもマリン・ビストレムのちょっときつそうなエリザベートもコンヴィチュニーの現代解釈では却って面白いと思った。

ベルトラン・ド・ビリーの指揮は重厚でワーグナーみたい。イタリア人指揮者のような抒情と歯切れ良さはないが、それがコンヴィチュニーの重い舞台とマッチしていたと思う。

「ドン・カルロ」には4時間を超える5幕フランス語版から3時間を切る4幕イタリア語版までいろいろある。ワーグナーはストーリーがロゴス(論理)で出来ているのに対し、ヴェルディはパトス(感情)で出来ている。別の言い方をすればワーグナーは叙事的、ヴェルディは抒情的である。「ドン・カルロ」は史実に基づいているからヴェルディの中では叙事的だが、それでも感情のオペラだと思う。ワーグナーなら長い説明も論理的に必要かと思うが、感情は好きなものは好き、憎いものは憎いのだから何度も聴かされるともういいという気になる。どうしても飽きが来る。

総括して歌手もオーケストラの音楽も演出も良かった。でもどうにも長いと感じた。「ドン・カルロ」は短い4幕イタリア語版がヴェルディらしくベストだと思う。それでもヴェルディの中では長い方なのだから。



2021.3.13(土)16:00 愛知県芸術劇場コンサートホール
曲目
ブラームス:交響曲第4番ホ短調 作品98
ブラームス:交響曲第1番ハ短調 作品68

名フィル音楽監督小泉和裕によるシーズン最終公演。ベートーヴェン生誕250年記念のシリーズだったがコロナ禍で半分くらいしか行えず、最終回はベートーヴェンの後継となったブラームスのプログラムだった。

小泉さんはカラヤン指揮者コンクールで優勝し直弟子になったが、その振り方がカラヤンそっくりである。若干前かがみで両腕を下から振る姿を見ると真似してるとさえ思える。だが音楽は面白くなければカラヤンを聴けと言われたのとは随分違う。小泉さんの指揮は楽譜通りと言われるがこれくらい曖昧な表現はない。極端な話、編曲か間違いでもない限り皆楽譜通りである。厳密に言うならテンポ、音符の長さ、音階の周波数、強度(振幅)などの指定を全部物理的に数値化してみればよい。それは機械の音できっとつまらない音楽になるであろう。実際は程度の差こそあれ、テンポを揺らしたり、音のつながりを滑らかに或いはアクセントや強弱を付けてニュアンスを出し音楽にしているのである。楽譜通りと言うのはこの程度が小さいと言うことだと思う。小泉さんの音楽は作為をせず理性的で整然としていて、情緒とか激情とかの対極にある。だからオペラは振らず、コンサートに専念するのも分かるように思う。その特色は感覚的な音楽より思索的な交響曲、特にブラームスやブルックナーに最も生きると思う。

ブラームス・プログラムでも1番、4番の組み合わせは珍しいと思う。両方ともメインに当てる曲なので2回分を一度に聴いたお得感がある。1曲目の4番は如何にも小泉さんらしいと思った。ちょっと変化が少なく面白くない面もあるがブラームスらしい堅実で真面目な演奏であった。ソロをあまり強調せずティンパニーなど控え目だったがフルートだけは目立って素晴らしかった。悲嘆極まる冒頭と快活な3楽章が特に良かった。メインの1番は名フィル渾身の超名演だった。ここ10年くらいオケではブルックナー以外ほとんど聴いてなかった。久々に聴いたブラームス1番はフルトヴェングラー、ワルター、ベームなどレコード時代の感激が蘇ってきた。特に第2楽章はコンサートマスター荒井さん、ホルン安土さん、それに都響から客演のオーボエ広田さんのソロが哀愁を誘う何とも美しい音で深く感動した。こういう演奏はなかなか聴けるものでない。

終演後早々と楽器を片付け始めた。明日の東京公演の為発送しなければならない。都響の終身名誉指揮者になっている小泉さんである。東京の聴衆にもきっと深い感動を与えることと思う。



2015.9.11 (ライブ収録)
出演
オランダ人:ミヒャエル・フォレ
ゼンタ:リカルダ・メルベート
ダーラント:ハンス=ペーター・ケーニヒ
エリック:ヘルベルト・リッペルト、舵手:トーマス・エーベンシュタイン、マリー:キャロール・ウィルソン
ウィーン国立歌劇場合唱団、管弦楽団
指揮:ペーター・シュナイダー
演出:クリスティン・ミーリッツ

初めて観たワーグナーは「さまよえるオランダ人」であった。ワーグナーの中で一番短いしストーリーもシンプルだから、観た回数も多いと思っていたが意外にも一番少なかった。作品がつまらぬことはないから、遠征してもと思うのはパルジファルとかリングになるのだと思う。

これはかなり前の制作によるレパートリー公演だがキャストが最高。指揮者が歌手の自主性に任せつつも全体をよく調和させた演奏だったと思う。充分な準備をするプレミエと違って強いカラーは出ないが、その分歌手の意思がはっきり出る。

オランダ人は神を冒涜した罪により世界の海をさまようことになるが、何故冒涜したかは何も述べていない。ミヒャエル・フォレのオランダ人を観ていると、自業自得の後悔というより悲運の善人と思えてくる。声は穏やかで演技も相手を立てるように控え目だからである。これに対しゼンタは伝説の人物が現われたと信ずる娘だが、相当強い性格の持ち主のように演じていた。声の力強さが凄いし、エリックやオランダ人に対す態度も自我が表れていたと思う。ふたりとも歌唱は抜きん出ていた。私の描くイメージとは少し違うがこれはこれでありと思う。その他皆素晴らしい歌唱でそれぞれの役を十分に演じていた。中でも舵手役トーマス・エーベンシュタインの輝かしい声が耳に残っている。

クリスティン・ミーリッツの演出は読み替えのない普通のもの。すのこの船底状舞台の奥に船首や部屋のドアーを付けたものでとにかく暗い。糸紡ぎから酒で騒ぐ場面まで暗かった。一つだけ新しいと気付いたのはフィナーレでゼンタが海でなく火の中へ身を投じること。これではブリュンヒルデだが、ゼンタもブリュンヒルデも自己犠牲による救済が根本テーマだから矛盾しないとは思う。

ペーター・シュナイダーはたたき上げのオペラ指揮者で変わったことを全くしない。オケも安心して気楽に演奏してるように感ずる。好々爺で序曲が終わったところで拍手が湧いたので手を止め聴衆に応えていた。オペラではメータに継ぐ最長老組になったが、最近どうしてるかしら。


2021.3.6 ヘラクレス・ザール(ライブ収録)
出演
サイモン・ラトル指揮 バイエルン放送合唱団、交響楽団
曲目
パーセル:メアリー女王のための葬送音楽
ゲオルク・フリードリヒ・ハース:「イン・ヴェイン」(in vain無駄に)

ヘラクレス・ザールにおける無観客公演。この時期寂しい音楽はちょっと引けるが滅多にお目にかからないプログラムなので聴いた。バロックと現代音楽の組合わせなのに退屈もしなければ眠くなることもなかった。

1曲目は標題通りメアリー女王を弔う音楽である。トランペット、トロンボーン、太鼓と合唱だけの厳かな曲。合唱はステージ、管打楽器はステージ両脇の2階バルコンとディスタンスを保っていた。メアリー女王2世は若くして亡くなったがパーセルもその翌年36歳で亡くなっている。恐れ多くこの曲で送ってもらうことを考える人はいないと思うが良い曲である。

2曲目はオーストリア現代作曲家の作品で2000年の作。ラトルはハースを応援してるそうでこの曲はベルリン・フィルでも演奏している。弦管打合わせて24人の室内オケのための曲だが、管打が多くそれぞれの楽器の音が明確に聴こえてくる。何か盛り込んだ思想があるかどうかは全く分からないが、面白いことに音だけでなく照明の指定までして真っ暗で演奏するところがある。純粋音楽を視覚的に理解させる試みは初めての体験であった。

サイモン・ラトルはベルリン・フィルを退いた後ロンドン響の音楽監督に就任したが、2023年にはこのバイエルン放送響に移る予定になっている。英国のEU離脱では当然こうなるであろう。外部から見れば離脱は大英帝国の想いが忘れられないだけの愚かな策のような気がするがどうだろうか。



2021.3.6(土) びわ湖ホール大ホール
出演
ハインリヒ国王妻屋秀和
ローエングリン福井
エルザ森谷真理
テルラムント小森輝彦
オルトルート谷口睦美
伝令:大西宇宙  ほか
びわ湖ホール声楽アンサンブル、京都市交響楽団
指揮:沼尻竜典
演出:粟國

びわ湖ホールの「ローエングリン」は楽しみにしていたが、結局自重しストリーム鑑賞となった。コロナ禍で変更に継ぐ変更、セミ・ステージ形式になったりキャスト変更で制作の舞台裏は大変だったと思う。そんな中でもこの公演は素晴らしい大成功と言わねばならない。

音楽の熱気が凄い。コロナ対策で合唱がマスク着用という悪条件にもかかわらず、歌手もオケもすべてが尻上がりに高揚しホールへ行けばもっと良かっただろうと残念に思った。中でも歌手陣の意気込みが凄かった。今の時代音楽家は演奏したくてたまらない。おまけに昨年の「神々の黄昏」で世界に先駆けてストリーム配信した反響を皆重々知っていたであろう。気が入らないわけはない。

福井さんは3度目のローエングリンだそうである。独特の歌い方に更にアクセントが強く出て圧倒的な迫力で迫ってきた。個人的好みとして正直好きとは言えないが極めて人間的なローエングリンなのが良かったと思う。エルザの森谷さんはロール・デビュー、しかも安藤赴美子の代役で急に登板することになった。流石は飛ぶ鳥を落とす勢いの第一人者だけあって素晴らしい歌唱であった。これまでワーグナーは端役しか歌ってないのに短い時間でよく準備できたと感心する。他の人に比べるとエルザ役になり切ってないと感じたがそれはやむを得ぬこと。妻屋さんはいつもながらの存在感が揺るがない。小森さんのテルラムントは準メルクル・深作健太の二期会での名演が取り分け光っていたのを思い出す。今回ちょっと声が出ないところがあったが歌唱の感情表現は抜群だった。オルトルートの谷口さんも小森さんに負けじと悪女ぶりを発揮した。三河市民オペラのアズチェーナで記憶に残っているがますます声が成長し、動きの少ない演出でも顔の表情で演技して素晴らしかった。伝令の大西さんは大西宇宙飛行士ですぐ覚えたが、最近よく名を聞くようになった。開幕第1声でオッと驚いた。シカゴ在住だそうだがマスクも良いし有望なバリトンである。

京響の音も美しい。沼尻さんの指揮は弱音をより美しくクレッシェンドをより激しくを意識し劇的効果を狙っていたと思う。弦が12型で小さいように見えたが今回のストリームではあまり気にならなかった。

この公演はセミ・ステージ形式で、オーケストラはステージ上、歌手は通常のコンサート衣装でオケ前の3つの演技台で歌う。装置は両脇の石柱だけで、演出は立ち位置、映像と照明で工夫し目立った演技はあまりない。しかし白鳥、教会などスクリーンの映像と暗い青の照明で舞台は美しかった。歌手が歌い終わるとステージの暗いところを去るのもオペラの邪魔にならず良かったと思う。

コンサート形式と本格的舞台上演の中間に、セミ・コンサート形式、セミ・ステージ形式、ホール・オペラなどと呼ぶオペラ公演がある。その区分の定義は判然としないが、この公演は音楽の基盤の上に最小限の芝居を乗せたオペラの秀作名演であった。費用対効果(満足度)を考えたらこれが最も良いスタイルではないかと思う。それともう一つ大事なことは音楽は生で聴いて本当の姿が分かるということ。今回のストリームでは音量レベルをいつもより上げて聴いた。収録ものは聴かないよりは遥かに益しに決まっているが、出来ることなら会場に出かけたいものである。


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