くらはしのクラシック日記

~倶楽趣博人(くらはしひろと)の随想クラシックの思い出、Cafe Klassiker Hrを受け継いだブログです~

2021年07月


2021.7.24(土) プリンツレゲンテン劇場
出演
イドメネオマシュー・ポレンザーニ
イダマンテエミリー・ダンジェロ
イリアオルガ・クルチンスカ
エレットラハンナ=エリサベス・ミュラー  ほか
バイエルン国立歌劇場合唱団、管弦楽団
指揮:コンスタンティノス・カリーディス
演出:アントゥ・ロメロ・ヌネス

モーツァルトがミュンヘン宮廷から依頼されクヴィリエ劇場で初演された「イドメネオ」、今年のミュンヘン・オペラ・フェスティバルの新制作である。プリンツレゲンテン劇場はホールがバイロイトに似てフェスティバルでは一部がここで上演されている。国立劇場より小さいからモーツァルトには適している。

この公演は最後にバレエの付いた原典を使用していた。構成から見ると蛇足にしか見えないから省略されるのが普通である。演出も奇抜で解釈に変わったところは何もないがこれまで観たことのない舞台であった。

第1に舞台美術。装置が抽象的にせよ何を表しているのか分からない。四本脚の杭の上に歪んだ小屋とか大きな隕石みたいな岩が乗っていたり、鉄骨や木材で組んだ傾斜の付いた足場のようなものがある。それを移動しながら場面転換する。確かに現代彫刻を見てるような芸術性は面白いと思うが、オペラの場面を想像することが出来ない。衣装も色とりどりの質素な作業服で、王や神官は薄いカラフルなガウンを羽織っただけ。丁度東京オリンピック開会式がアニメ調だったのと似てる感じがした。こちらは解説もあって意味は分かるが、このオペラは分からない。

第2はバレエが加わって何かしないと手持無沙汰になると考えたのか、序曲には装置の溶接や研磨の製作現場を見せたり、バレエには譲位した国王イドメネオが制作モデルを持ち出したり飲み食いしながらバレエを見たりしている。楽員も一部がステージに上る。オペラにどういう人がかかわっているかを示しているようだが、何か特別の意図があるのだろうか。

更にキャスティングが原作の役柄とは違う感じを受けた。例えばイドメネオのマシュー・ポレンザーニは甘い声で国王らしくなく、エリサベス・ミュラーもエレットラでなくイリアの声だ思う。そういう読み替えをすればよいのだが舞台がそうなっていない。そんな中でエミリー・ダンジェロがきれいな声で優しい王子イダマンテに相応しく歌唱演技も一番良かったと思う。

コンスタンティノス・カリーディスのオケはリズムをいたずらに強調し打楽器を強打するドライな音楽で味わいがなかった。

演出(舞台セット)も音楽も新奇さがあったのは確かで、試みとしては理解できるが好きになれなかった。歌唱自体は悪くなかったから全体が調和せず変わったものを観たという感である。多様性を重んじる今日、旧態然としたものを求める時代ではない。100%の満足は難しくともどこかに共感するところを見つけるゆとりを持つことが必要である。



2012.12.8 メトロポリタン歌劇場
出演

リッカルド(グスタヴ3世):マルセロ・アルヴァレス
レナート(アンカーストレム伯爵):ディミトリ・ホヴォロストフスキー
アメーリア:ソンドラ・ラドヴァノフスキー
オスカル:キャスリーン・キム
ウルリカ:ステファニー・ブライズ  ほか
メトロポリタン歌劇場合唱団、管弦楽団
指揮:ファビオ・ルイージ 
演出:デイヴィッド・アルデン

昨年3月以来1年4ヶ月にわたるMETストリーム配信もこの「仮面舞踏会」で打ち切りとなる。その間に観た映像はウィーン国立歌劇場より多い80本程になる。リピート作品もあったから多分1/3くらいは観たのではないかと思う。ピーター・ゲルブ総裁には感謝したい。

ファビオ・ルイージが首席指揮者に就任した年の公演で、演目は違うがその前年大震災直後の来日公演より締まった感じを受けた。レヴァインの後を継ぐつもりでいたかどうかは知らないが歌手もオケもよく合わせようとしていたようだった。

演出は読み替えのないちょっとヨーロッパ的香りがしてMETにしては新しさを感じた。その基本コンセプトは国王グスタヴ3世をギリシャ神話のイカロスのように自由に生きたしかしそれが頓挫した人間として描きたかったのだと思う。パネルを組んだだけのモダンな舞台だが天井には「イカロスの墜落」のルネッサンス絵画が描かれ、天井から下がるシャンデリアもイカロスの形をしている。更に小姓オスカルにイカロスの翼をつけ、国王の分身のような役割を持たせた。だからオスカルは髭をつけ男役の道化みたいな恰好をしている。この解釈は面白いと思うが、デイヴィッド・アルデンはそれ一本に絞って突き詰めることなく、舞踏会にミュージカルのライン・ダンスを入れ如何にも娯楽主義のMETらしくしている。舞台美術の芸術性とダンスの大衆娯楽が混じりあった舞台であった。

歌手は素晴らしい人が揃っていた。歌唱、演技、風貌とも役柄に嵌っていたのは伯爵のディミトリ・ホヴォロストフスキーとウルリカのステファニー・ブライズのふたり。特にブライズは出番が少ないけれども貴重な脇役として光った存在であった。国王のマルセロ・アルヴァレスはイタリアン・テナーらしい明るく力強い声が昔の声のイタリアオペラ時代を思わせた。また伯爵夫人アメーリアのソンドラ・ラドヴァノフスキーも深い落ち着いた声で気品があって良い。ただアルヴァレスは感情が今一つ伝わってこないし、ラドヴァノフスキーは若さが感じられないのがちょっと気になった。キャスリーン・キムはMETオランピアが最大の当たり役だが、男役は初めてということでこの演出のオスカルは様になっていなかった。その他合唱が素晴らしかった。

METは2021-22新シーズンの開幕が2か月後に迫ってきた。いよいよという思いで期待が膨らむ。開幕公演は9月27日アメリカの作曲家(ジャズ・トランぺッタ―)のブランチャードの新作ものとのこと。それに先立ち9月11日にヴェルディのレクイエムが演奏されコロナで亡くなった人を悼むことになっている。



2021.7.23(金祝)14:00 宗次ホール
出演
中井亮一(朗読)、西村尚也(ヴァイオリン)、名フィル首席奏者たち
曲目
ラヴェル/古橋由基夫:組曲「マ・メール・ロワ」≪7人の器楽奏者とピアノのための≫
ストラヴィンスキー:兵士の物語(1918年室内楽&朗読版)
(アンコール中井亮一) ストラヴィンスキー:プルチネルラからセレナータ

「兵士の物語」をライブで聴くのは2度目である。初は2014年のアルゲリッチ音楽祭だが、これが目的というわけでなくおまけについてきたようなものであった。本命はモーツァルトとシューマンの室内楽の方で、こちらはアルゲリッチの娘さんが語りを務めアルゲリッチは客席で応援していた。

気づかなかったが今年はストラヴィンスキー没後50年だそうで、そう言われてみるとプログラムにストラヴィンスキーが上がるのが例年より多いような気がする。有名なバレエ3部作(火の鳥、ペトルーシュカ、春の祭典)より後の作品だが、この間に起きたロシア革命と第1次世界大戦の影響をまともに受け必要に迫られて作曲したものである。それ以降作風が変わるが、今でも最もよく演奏されるのは初期の3部作で特異性がはっきりしていることがあると思う。

「マ・メール・ロワ」編曲者の古橋由基夫は名フィルの元コントラバス奏者で兵士の物語の楽器編成に合わせて編曲したと思われる。原曲にないトランペットの音がきつ過ぎてイメージがまるで違う印象を受けた。特に1曲目がそうで進むにつれて次第に耳が慣れ苦にならなくなった。有名曲だから難しいことではあるが、原曲を知らずに聴いたら上手い演奏と思ったであろう。

「兵士の物語」は何を置いても中井亮一の語りが素晴らしいかった。即興的台詞を入れたり、オペラ歌手だけあって音譜に合わせた語り口をしたり、登場人物によって声を変えたり、声優顔負けの熱演であった。音楽の情景を一層分かり易くしたと思う。最初の曲と違いトランペットの鮮やかな音が目立って良かったと思う。兵士と王女が会う場面からヴァイオリンが活躍して劇的変化が魅力的になる。西村のリズムと表情のあるヴァイオリンをはじめ名フィル首席奏者の技量が発揮された素晴らしい演奏であった。

この作品が初演された頃スペイン風邪が大流行していて演奏会もなかなか難しかったそうである。今日のコロナ禍の状況とも似ているからその点でも没後50年記念だけでなく意義深いように思う。

珍しい演奏ということでほぼ満席であった。状況がよく変わるので入場数管理が難しそうだ。


2021.7.9 アルシュヴェシェ劇場 (プレミアライブ収録Arte)
出演
フィガロ:アンドレ・シュエン
スザンナ:ジュリーー・フックス
アルマヴィーヴァ伯爵:ギュラ・オレント
伯爵夫人ロジーナ:ジャックリン・ワグナー
ケルビーノ:レア・デサンドレ  ほか
マルセーユ音楽院合唱団、バルタザール・ノイマン・アンサンブル
指揮:トーマス・ヘンゲルブロック
演出:ロッテ・デ・ベア

プロヴァンス大劇場が出来る前は旧大司教館中庭のこの特設舞台が音楽祭の中心であった。野外の古くからの雰囲気がある方がエクス・アン・プロヴァンスらしい。

この「フィガロの結婚」はマドリード・レアル劇場との共同制作。先に書いた「トリスタンとイゾルデ」と違って若手を集めた公演で、ある意味で非常に面白かった。

ロッテ・デ・ベアの演出は現代的で読み替えはない。1,2幕は伯爵の邸宅。中央の大型洗濯機を挟んで左右に伯爵の寝室とリビングがある。普通のリアルな舞台かと思ったら、3幕は抽象的舞台で真っ暗な中に蛍光管で縁どられたガラスのケージがあるだけ。4幕になると岡本太郎の太陽の塔を思いだすサイケディックな装置。これでは統一感が全くなく戸惑ってしまう。しかし個々の場面はコミック的面白さがあって次々と仕掛けが飛び出す。いくつか例を挙げるなら、ケルビーノが洗濯機の中に隠れると回り出す、スザンナのドライヤーが破裂してざんざら髪に逆立つ、マルチェリーナがブクブクの服を脱ぎ捨てる(パパゲーナみたい)、伯爵の夜中のお忍びに目隠し(こどもの鬼さんこちらみたい)、等々いちいち挙げ切れないくらい多い。セックスをコケティシュに描くところも多く、棒状のものはすべて男根の象徴らしい。おまけに要所要所で「拍手」「笑い」のネオンサインを灯して聴衆に催促する。演ずる歌手が皆若くスリムな美人、イケメンでそれを規準に選んだみたいである。とにかく目を楽しませてくれ、特に1,2幕は吉本のようであった。

その一方歌唱の方はそれなりの好演といったところ。ジャックリン・ワグナー以外は知らない人ばかりであった。その中で一番目立ったのはスザンナのジュリーー・フックス。軽いリリックな声と軽快な動きが演出によくマッチしていた。伯爵夫人のワグナーはきれいでしっとりした声が素晴らしいが、生真面目一辺倒な歌唱でこのお笑い劇にはひとり浮いた感じがしないではない。ケルビーノのレア・デサンドレはまだ20代、思春期には見えないこどものような声と姿だと思ったら長くバレエをやっていたとのこと。男声陣ではアルマヴィーヴァ伯爵ギュラ・オレントとフィガロのアンドレ・シュエンは身体つきが似すぎていて、主従関係より友達のように見える。社会風刺でなく単なる色話なら、もしやそれが狙いだったかもしれない。歌唱演技ともスザンナより動きが少し弱い感じがする。この他ではバジーリオを演じたエミリアーノ・ゴンザレス・トロの鮮やかな声が耳についた。トーマス・ヘンゲルブロックのオケもニュアンスに乏しくぶっきらぼうで味気ない。

「思いついたことを全部見せますからどうぞお楽しみください」というような公演であった。余計なことを考えずその場その場を楽しめば良いことにしましょう。

なお舞台写真はこちらからどうぞ
新作オペラFLASH 2020/21[エクス=アン=プロヴァンス音楽祭]フィガロの結婚 | 月刊音楽祭 (m-festival.biz)



2021.7.8 プロヴァンス大劇場 (プレミアライブ収録Arte) 
出演
トリスタン:スチュアート・スケルトン
イゾルデ:ニーナ・シュテンメ
マルケ王:フランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒ
ブランゲーネ:ジェイミー・バートン
クーヴェナル:ヨゼフ・ワーグナー
メロート:ドミニク・セジウィック  ほか
ロンドン交響楽団、エストニア・フィルハーモニー室内合唱団
指揮:サイモン・ラトル
演出:サイモン・ストーン

今開催中のエクス・アン・プロヴァンス音楽祭からルクセンブルク歌劇場との共同制作による「トリスタンとイゾルデ」。サイモン・ラトル指揮ロンドン響がピットに入り最高のワーグナー歌手を揃えた公演だから期待が膨らむ。ヨーロッパはコロナ規制が緩和されて久々に満員の聴衆を集めて行われた。コロナ・パスポートが必要だったようだが演奏者を含めてほぼ全員がマスクを着用していた。

サイモン・ストーンの演出は現代に読み替えて夢と現実を一緒にしたようでどうもしっくりこなかった。演奏も録音の所為かもしれないが、歌手の声だけが勢いよく飛んできて、オケの方はクリアーながら随分遠くに聴こえ、オケが添え物になった感じがした。

その演出だが意外とさばさばした現代っ子の話になっていたように思う。イゾルデとマルケ王はそれぞれ別の会社の経営者。トリスタンは元マルケ王の下で働いたが今はイゾルデの会社に移っている。イゾルデはトリスタンに気があるようだがトリスタンの方はそうでもない。ブランゲーネはイゾルデの片腕でバリバリのキャリアー・ウーマン、クーヴェナルはトリスタンの忠実な部下、メロートはマルケ王の息子でイゾルデを好いている。

第1幕はイゾルデの高層マンションの一室。パーティーに集まった社員が皆引き上げひとりになったイゾルデがベッドに入ると劇が始まる。昔の回想が夢になってスタートする。惚れ薬で結ばれる恋だからこの方が良い。第2幕は話が飛んで現実に戻り、マルケ王のオフィス。ここで仕事するイゾルデはトリスタンを待ちわび再会する。ふたりが愛を語り合う間は幻想の世界に入り、黙役のペアが愛を交わし、子供を育て、老いるまでを演じている。ここで現実に戻りマルケ王とメロートに見つかってしまう。第3幕はメロートに刺され深傷を負ったトリスタンの幻想である。パリ・シャトレ駅に向かう地下鉄の車内。トリスタンとイゾルデはオペラを観に行く途中であったのだろう。この車中で殺傷事件が起こり、トリスタン、クーヴェナル、メロートが死んで、イゾルデが過去を回想して幕となる。ただしフィナーレのシーンはイゾルデがトリスタンに指環を返しメロートと二人で電車を降り去ってゆく。ここは現実であろう。勝手に解釈してみたが夢(幻想)と現実の境界がはっきりせず繋がっているのでしっくりこない。夢や幻想は辻褄が合うはずないからと割り切っては消化不良で気分が悪い。 

主役4人はワーグナーはこうあらねばならないと思わせる自信に満ちた力強い歌唱で最高に素晴らしかった。ただ今の世によくある下世話な話にしては重過ぎると思う。その中で感情表現においてシンパシーを感じたのはマルケ王のフランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒで如何にも悲しそうな雰囲気がよく出ていた。逆に声も演技もこれまでのイメージと違ったのはブランゲーネのジェイミー・バートンでイゾルデに仕えるようにはとても見えず、指図してるような貫禄があった。

声は最高だったがそれ以外はどちらかといえば期待外れといったところ。いろいろと考え想像させてくれた点では極めて面白くはあったが、見終えてあまり余韻が残らなかった。



1994.11.3 (ライブ収録)
出演
アラベラ:キリ・テ・カナワ
ズデンカマリー・マクローリン
マンドリーカヴォルフガング・ブレンデル
ヴァルトナー伯爵:ドナルド・マッキンタイアアデライーデヘルガ・デルネシュ
マッテオ:ダヴィット・クールバー、フィアカーミリ:ナタリー・デセイ  ほか
メトロポリタン歌劇場合唱団管弦楽団
指揮:クリスティアン・ティーレマン
演出:オットー・シェンク

もう30年近く前のMET映像だが、今活躍中の人の若かりし姿や引退した人を懐かしく思って観た。取り分けこれがティーレマンとデセイのMETデビューだったことである。オットー・シェンクの精緻写実的で大掛かりな演出も金に糸目をつけぬ古き良き時代の歴史的産物である。かれこれいうことは何もなく過去を想って眺めるだけである。

アラベラのキリ・テ・カナワは当時多くの伯爵夫人役でフェリシティー・ロットと並ぶ当たり役で、両人とも英国のデイムを授与されている。彼女は珍しくニュージーランド原住民の血が入った人で清らかで甘く温かい声は上品で名声をはくした。ズデンカマリー・マクローリンは可愛らしくて男を装うズボン役が似合っている。デセイが端役でMETに出たとは知らなかった。ただこの時は20歳代だから後のスターの片鱗は見えてもまだ舞台で小さく見える。マンドリーカヴォルフガング・ブレンデルは今はワーグナーが多いと思うがオールラウンドで何でもこなしていた人である。

ティーレマンもこのとき35歳。「アラベラ」の後「パルジファル」を指揮しているがMET客演は少ない。この演奏は3幕はティーレマンらしいが1,2幕がオケとの息があってないように思う。レヴァインとはアプローチが違うからオケが慣れていなかったかもしれない。

舞台装置、衣装はこの上なく見栄えがあるし、カナワとマクローリンの歌唱も実に味わいが深く聴き惚れてしまった。DVDは画質が古いが特選版である。




2021.7.10(土)16:00 愛知県芸術劇場コンサートホール
出演
小泉和裕指揮 名古屋フィルハーモニー交響楽団
曲目
シェーンブルク:浄められた夜 作品4
ブラームス/シェーンベルク編:ピアノ四重奏曲第1番ト短調 作品25

名フィル音楽監督小泉和裕の今シーズン最初の定期演奏会。前回3月のブラームスも素晴らしかったが、その流れを汲むシェーンベルク・プロというのも面白い。負けず劣らずの熱演であった。

シェーンブルクが無調、12音階の革命を起こす前の作品だから両作品ともロマン派の音楽で室内曲を編曲したもの。自らの弦楽六重奏を編曲した「浄められた夜」は何度か聴いたことがあるが、これは芯があり緊張感があってしかも表情豊かな演奏であった。またピアノ四重奏曲の方も素晴らしく、自らブラームス5番と言ったように何も知らずに聴いたらブラームスの作品と思うに違いない。ピアノのパートが主に管打楽器になったかと思うが、それが独立して鮮やかにならず混ざり合ってブラームス特有の渋い音になっていた。両作品ともヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのソロを残しており原曲を尊重する姿勢が窺える。

小泉さんは目立って変わったことをしないから、ただ普通に聴こえると思うことがある。しかしその普通の中に微妙なニュアンスを意識的に盛り込んでいる。全て耳で聴き分ける能力があれば別だが、目からの情報が助けになることは多い。指揮者を正面に見ながら聴くようになってその意図がはっきり分かっるようになった。棒の振りだけでなく身体の動き、首、目、口まで使いながら指示を送っている。楽器を弾かない私にも多少楽員の気持ちが分かるように思った。

小泉さんが終演後挨拶に立ち、この日が名フィル創立55周年の記念日だと知った。それだけに精神が集中していたのかもしれない。名フィルがいつも以上に熱の入った名演であった。

余談ながら小泉さんもそろそろ長老の域に近づきつつある。小澤征爾が実質引退状態にあるから飯守、小林、秋山のご3人に続く年代になっている。これからが本当にいい時期になると思うが、幸い若々しい姿をしておられるので長く聴かせていただきたいと思う。




2003.4.3 (ライブ収録)
出演
作曲家:スザンヌ・メンツァー
プリマ/アリアドネ:デボラ・ヴォイト
ツェルビネッタ:ナタリー・デセイ
バッカス:リチャード・マージソン
音楽教師:ネイサン・ガン  ほか
メトロポリタン歌劇場合唱団、管弦楽団
指揮:ジェイムズ・レヴァイン
演出:エリア・モシンスキー

METストリーム配信は今週リヒャルト・シュトラウス特集を組んでいる。ほとんどリピートと思う中に観てないものがあり、この「ナクソス島のアリアドネ」はそのひとつ。最大の楽しみであったナタリー・デセイのツェルビネッタを十二分に堪能した。

この映像はデセイが声帯手術を受けて復帰したばかりのものだが、それを微塵も感じさせない歌う女優ぶりを発揮している。実は同じ年の秋パリでデセイのツェルビネッタに接しているがその時の会場の熱狂ぶりは今でも覚えている。水着姿で超絶技巧の長いアリアを歌い終えると嵐のような大歓声が沸き起こり指揮者も楽員も一緒になって拍手を送っていた。流石はパリの生んだ大スターである。その時初めて彼女が元は女優志願であったことを知った。

エリア・モシンスキーの演出はかなり昔の古典的なものだが、ショー的演技も入ってMETらしくよく練られていたと思う。序幕の楽屋のドタバタ騒ぎと本番オペラの劇中劇になっているが、普通この二つを独立に考えた2本立てのような演出が多いように思う。その点これは両者のつながりが演技にも表れて面白かった。つまりオペラは急仕立ての芝居として演じられるので、事前の打ち合わせが分かるような演技をオペラの中で見せていた。具体的に言えば例えばツェルビネッタが仲間に指図したり、アリアドネが深刻な場面なのにツェルビネッタに上手くいったと言わんばかりの笑顔を送ったりする。舞台装置もどこかの屋敷に特設されたような素朴な雰囲気があり、豪華さはないが衣装もカラフルで曲芸も入った娯楽的要素のある舞台であった。

この作品のタイトル・ロールはアリアドネだが、舞台で目立つのはやはりツェルビネッタの方である。歌唱も超難しいし演技でも静動の対照では動の方が目立つ。歌唱演技とも出来る人はそう多くはないと思うが、デセイは当時頂点にいたソプラノである。その後ダムラウに引き継がれたが、今は誰かと直ぐ思い当たらない。声も容姿も年齢的に限られるから難しいと思う。デセイはMETでも目を見張る大活躍で、清澄な声もころがりも伸びも素晴らしいし女優志願だけあって舞台上の動きも申し分ない。一方普通陰になりがちな役アリアドネのデボラ・ヴォイトもまたそれに劣らず素晴らしい。立って歌ってるだけでもプリマの存在感がある。表現力が素晴らしく、どんな場合でも声にゆとりがあり高級リムジンに乗ってるような感じがする。嘆き悲しむ弱々しい映画女優的アリアドネではないが、ツェルビネッタとの静動・軽重の対照が舞台上生きて効果的であった。それに序幕に登場する作曲家も地味な役ながらスザンヌ・メンツァーが生真面目で女性的に演じて良かった。男声陣は出番が少なく刺身のつまみたいだがリヒャルト・シュトラウスでは程度の差はあっても皆そうだから仕方ない。

リヒャルト・シュトラウスのオペラは日本人による公演が少ないと思うが、その中では「ばらの騎士」と「ナクソス島のアリアドネ」はまあある方と思う。女声3人を揃えるのが難しいようで凄いと思うような舞台上演にあったことがない。だからストリームはなるべく逃さないようにしているが、こういう特集はファンにとってありがたいことである。



2021.6.3 (プレミア ライブ収録配信Arte6/26)
出演
アダーム:カイル・ケテルセン
シャバ(イヴ):アネッテ・ダッシュ
カイン:リー・メルローズ
シャベル(アベル):ジョン・オズボーン
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
指揮:フランソワ=グザヴィエ・ロト
演出:カリクスト・ビエイト

今年のオランダ・フェスティバルの公演で全く初めて耳にするオペラが上演された。ルディ・シュテファンは19世紀末から20世紀初めに生きたドイツの作曲家。リヒャルト・シュトラウスより後に生まれ先に死んでいる。第1次世界大戦で戦死し僅か28年の生涯であったが、この「最初の人類」は残された10数作品の中で唯一のオペラである。

台本はシュテファンより10歳くらい年長のオットー・ボルングレーバーで、旧約聖書創世記のアダムとイヴ、その子カインとアベル兄弟を題材に当時ブームだったフロイト精神分析の見方で創作されたエロティック・ミステリーである。

若い妻シャバは仕事一筋の夫アダームに性的不満を持っている。ふたりの子供は性格が正反対で、兄のカインは野性的で母シャバに強い関心を持ち、反対に弟のシャベルは宗教心篤い模範的息子である。母はそんなカインを嫌って冷たく当たりシャベルの方に愛情を注ぐ。それに嫉妬したカインはシャベルを殺してしまう。人間の性的欲求、フラストレーションは禁断の愛、嫉妬、殺人までに発展することがあるが、これは人類が生まれて今日まで変わることなく永久に繰り返されているという筋書である。

舞台は中央に大きなテーブルと椅子。花とフルーツがカラフルにテーブル一面に盛られている。それを覆う半透明のテント小屋が左右に移動して場の転換をする。ステージの後ろに紗のスクリーンが下がり、オーケストラはその後ろで歌手はステージ前に置かれたディスプレイで指揮者を見る形になる。テーブル上のイチジクなどがエデンの園を想わせるが、他は衣装も今日の一般的なもので現代的な演出である。旧約聖書と現代を結び付けた観念的で簡素な舞台で、映像も使われるが実質的に演技だけが決め手になる。

シュテファンの音楽は初めて聴いたが後期ロマン派の時代だからリヒャルト・シュトラウスと比較したくなる。官能的で大音響を轟かす点では同じだが、シュテファンの音楽は個々の楽器が目立つ華麗な響きでなく、むしろ全体が幻想的な雰囲気である。それを指揮者のロトは靄っとさせずかなり明確で現代的なクリアーな音楽に創っていた。コンセルトヘボウの演奏が凄く、とてもオペラ伴奏の感じはなくシンフォニー・コンサートを聴いてるようであった。 

それ以上に4人の歌手がキャラも役柄に合って素晴らしい。大編成のオケをバックに力強い歌唱とかなり過激な演技で、しかし目を背けたくなるようなものでないから観る者に圧倒的に迫ってくる。特にシャバのアネッテ・ダッシュとカインのリー・メルローズは実に迫真の演技であった。日本人には無理だろうと思った。

この作品は作曲家の死後1920年の初演後舞台に上がることは滅多にない。このオランダ・フェスティバルでの上演は何と1988年以来33年振りだそうだ。日本での舞台上演は難しいと思うが、コンサート形式で演奏したら「サロメ」に劣らず受けるような気がする。それくらい迫力ある音楽である。

ビデオはこちらから半年みられるので興味のある方はどうぞ。

Rudi Stephan : Les Premiers hommes - Regarder le programme complet | ARTE Concert



2021.5.22 (ライブ収録YouTube)
出演
花子:エレーナ・バンコヴィッチ
実子:ミルダ・チューブリテ
吉雄:マクシミリアン・クルメン
ブラウンシュヴァイク州立歌劇場管弦楽団
指揮:アレクシス・アグラフィオティス
演出:イザベル・オスターマン

 日本のオペラが海外で繰り返し上演されるのは極めて稀だが、その中で細川俊夫は例外である。「班女」は2004年エクサン・プロヴァンス音楽祭が世界初演、2011年の「松風」もモネ劇場が初演で、両方とも海外で10回以上プログラムに上がり延べ公演数は50回を超える。ところが日本では初演が忘れられた頃になってやっと上演になる。

ブラウンシュヴァイク歌劇場の新制作「班女」は10日ほど前に無観客で上演収録された。能を題材にした三島由紀夫の小説をドナルド・キーンが英訳したものをベースに台本が作られている。物語は吉雄に捨てられた芸子花子が一心に待ち続けて狂女になる話である。これに花子の面倒を見ている実子が加わってふたりは妖しげな関係になる。実子は花子が吉雄と会わないように仕向けるが新聞記事をきっかけに結局二人は合うことになる。しかし目の前に現れた吉雄を見て花子はそれは吉雄ではないという。

時と場所は変えているが読み替えはない。舞台は現代のどこかのアパートメントで共用階段と上下に繋がった二人の部屋で進行する。花子の部屋壁が華やかな日本的絵柄になっているが芸子は連想できない。花子の服は若者向けのファッショナブルなもの、年増の実子は黒のワンピースで今日普通に見るものである。人間の心情は時も場所も関係ないから問題ないと思う。フィナーレは吉雄が階段に腰を下ろして後悔してる中を実子は静かに家を出ていく。このシーンは余韻が残って印象的であった。

ブラウンシュヴァイクは州都ハノーファーから50キロばかりの州第2の都市。ヨーロッパではこういう地方の歌劇場から育っていくのが普通で出演歌手はなかなかの好演であった。ただ全体的に大人しく役柄の違いを打ち出すところまでいってなかった。日本的ではあったが声も演技ももっと違って良かったと思った。

細川俊夫のオペラ2作目に当たるが、音楽は能の奥床しさがあり弱音と無音の休止が多い静寂な作品である。日本の伝統的和楽器を使わず雰囲気だけを残した点は異国情緒をアッピールするものではない。それが却って珍しいということでなく真の音楽評価で高く受け入れられていると思う。

日本を代表するオペラといえども現代曲は苦手な人が多く敬遠されがちである。武満徹でもいまだにそうだと思う。因みに2016年細川俊夫「静かな海」は東日本大震災がテーマになっていているが日本初演はまだである。今年震災10周年なのに。



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