くらはしのクラシック日記

~倶楽趣博人(くらはしひろと)の随想クラシックの思い出、Cafe Klassiker Hrを受け継いだブログです~

2021年09月


2021.9.4 ディ・グロッケARTE Concert)
出演
ディアナ・ダムラウ(ソプラノ)
ジェレミー・ローレル(指揮) ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン
曲目
リヒャルト・シュトラウス:メタモルフォーゼ23の独奏弦楽器のための習作
リヒャルト・シュトラウス:歌曲集から ばらの花輪(op31/1) セレナード(17/2) 懐かしき面影(48/1)
                      子守歌(41/1) 万霊節(10/8) 献呈(10/1)
             (アンコール) 明日の朝(27/4)
チャイコフスキー:交響曲第3番ニ長調 作品29

グリム童話「ブレーメンの音楽隊」で誰でも知ってる街ブレーメンだが、ここで開かれる音楽祭については意外に日本に流れてこない。パーヴォ・ヤルヴィ率いるドイツ・カンマーフィルは正式にはドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンといってここに本拠地を置いている。今年の音楽祭でフランスのライジング指揮者ジェレミー・ローレルとディアナ・ダムラウが共演しているのをARTEで見つけ早速観た。

指揮者ローレルは以前読響に客演したことがある。二期会の「サムソンとデリラ」も指揮することになっていたが、こちらはコロナ禍で代役に変わった。チェンバリストと作曲家でもあり元はバロック音楽から出発し古楽のオケも創設している。しかしそれには拘ることなくその時々で作品やオーケストラの特性に合わせているそうだ。このビデオを見ても古楽を感じさせることはなく今日普通に見られる演奏だと思った。

屈指の地位を確立したドイツ・カンマーフィルはソリストの集まりのようなオーケストラで弦でも皆コンサートマスターのように気を張って演奏している。昔サイトウ・キネン・オーケストラ発足時のような気迫を感じた。この12月ヤルヴィと共に来日予定だったがコロナでキャンセルになった。来年12月に来日とのことで聴けなかったベートーヴェン・チクルスに期待したい。

演奏は指揮、ソリスト、オーケストラそれぞれの良いところが出ていたように思う。アクセントの付いた極めてダイナミックで叙情性もある。最も強烈な印象を受けたのは1曲目のメタモルフォーゼ。弦楽合奏だが副題が示す如くそれぞれの楽器が独奏のように主張し進行する。これは力量のある弦でなければ成功しないと思う。ダムラウの歌曲は予想通り。ダムラウはオペラも勿論よいが歌曲を得意としていて、歌曲では声の美しさ、声が変わらず崩れない歌唱、過多にならない感情移入、これがすべて揃っている。オペラの役に没頭して声を変えてまで極端に感情表現するのは歌曲に向かない。この日は幸せを感じながら聴くことが出来て良かった。最後のチャイコフスキーはあまり共感できない。後の4~6番に比べ、また同じころ作曲されたピアノ協奏曲1番や「白鳥の湖」に比べ締まりがないように思う。部分的には良いメロディーもあるのに全体に単調と思う。ただフィナーレの迫力は凄かった。ローレルは各パートを際立たせたり、ソリストに主導権を持たせたり、なかなか気を遣う指揮者だと思った。

聴衆は初心者の集まりだったのだろうか。歌曲でもそうだったが、チャイコフスキーの楽章毎に拍手が入る。指揮者が振り向かないのに気が付かないのであろうか。こういうことはドイツで初めて見た。

テレビのネット配信が普及しコロナ禍も後押ししてヨーロッパのコンサート、オペラがより身近になった。ライブは夜中になるのでなかなか視られないが、無料オンデマンドも少しずつ増えてきたのは有り難い。


2021.5.6 ルードヴィヒスブルク劇場(ARTE-YouTube)
出演
アンナ・ラーション(アルト)、クリスティアン・エルスナー(テノール)
ルードヴィヒスブルク音楽祭管弦楽団
指揮:オクサーナ・リーニフ
曲目
ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調 作品68「田園」
ジョン・ケージ:4分33秒
マーラー:「大地の歌」(ヘンリー・フェアの映像付き)

ルードヴィヒスブルクはドイツ南部の街、その城を中心に毎年5月から7月にかけて音楽祭が開かれている。創設は1932年と古くマイナーながら著名な音楽家が多く出演しているようである。昨年は中止、今年もほとんどが中止のようだったがこのコンサートは開幕公演に当たり無観客で演奏されストリーム配信された。今年はバイロイト初の女性指揮者になったオクサーナ・リーニフのほかバーバラ・ハンニガン、アロンドラ・デ・サ・パーラの3人の女性指揮者が音楽監督になっていた。リーニフをもう一度聴いてみたいと観てみた。

このプログラムは面白い。人間と自然の調和がテーマになっているそうで「田園」と「大地の歌」という曲目標題からも成程と思える。しかし私にとって最大の関心事は間に挟まれたジョン・ケージの音のない作品である。知ってはいたが実際プログラムに上がったのを見たのは初めてであった。大体どう「演奏」するかという素朴な疑問が真っ先にくる。

結論は第1に観る音楽、第2にその間に考えさせる音楽ということである。その時の様子を記せばオーケストラのチューニングはいつも通りである。指揮者が登場し一礼して楽員たちと目を合わせた後、まず全管を立たせた。それから指揮を始めたが楽員の方はスタンバイのままで腕や指を動かすことはない。弦も同じである。途中楽譜が映し出され3部に分かれていることが分かったが、その切れ目で指揮は小休止する。こういう状態で時間が流れた。終わって時間を計ったら5分半弱で(小休止を含む) 4分33秒を強く意識していると感心してしまった。要するに指揮者だけが普通のコンサートのように仕事しているのである。リーニフは中間部をアダージョのように振ったがこれは彼女のこの場のイメージでやり方は無限であろう。

演奏についてはリーニフがオーケストラをよくコントロールしていると思った。「田園」で分かったが、楽章によってテンポ、フレージング、楽器のバランスの取り方など変えていて、それをオケがよく受け止めていた。ディジタル時代のスマートな演奏であったと思う。後半の「大地の歌」はラーションの暗くて美しい声とエルスナ―の力強い声がこの曲によくマッチして素晴らしかった。ただリーニフさが出たのはベートーヴェンの方だと思う。環境活動家ヘンリー・フェアの映像付きであったが、石油・鉱山の採掘や様々な工場の廃出物によって破壊される地球の姿を映していた。曲の持つ寂しい感情を現代的意味で再発掘するのは良いことと思う。

再びジョン・ケージに戻るが無音音楽は指揮を見て何かを想像せよというだけでなく、コンサート全体を通じて自然の大切さを考えよという意味もあったかと思う。それなら最後に持ってきた方が理屈に合うがそれではプログラムの形が整わない。いずれにしてもCDで単発で聴いては意味がなく、指揮振りを見るか他の曲と一緒に組み合わせ考えるきっかけを作らないと価値がないように思える。面白い経験が出来た。




2021.9.3(金) バイロイト辺境伯歌劇場(ARTE-YouTube)
出演
アダルジーソ:フランコ・ファジョーリ
ロタリオ:マックス・エマニュエル・ツェンチッチ
ジルディッペ:ジュリア・レジネヴァ
ジュディッタ:スザンヌ・ジェロム
アスプランド:ぺートル・ネコラネック
べラルド:ブルーノ・デ・サ  ほか
アルモニア・アテネア
指揮:ジョージ・ペトロウ
演出:マックス・エマニュエル・ツェンチッチ

YouTubeを見ていたらバイロイト・バロック・フェスティバルの名前も知らないオペラに目が留まった。ネットで調べてもあらすじすらよく分からなかった。ぶっつけ本番の視聴になったがフランスArteの配信で字幕も英語がない。幸い自動翻訳が利用できたので辛うじて大筋は理解することが出来た。

ポルポラはヘンデルと同じ年代のイタリアの作曲家。「カルロ・イル・カルヴォ」はオペラ対訳プロジェクトにも他の作品は載っていてもこれはない。それくらいレアなものが上演されるのはさすが古楽の音楽祭もあるヨーロッパならではと思う。

内容は王位継承争いがテーマだがその中で良いところは敵対の関係にある者同士の恋愛である。骨格だけ述べれば、亡くなった王の先妻の長男ロタリオと後妻ジュディッタの争いで、それぞれにアダルジーソとカルロ(まだ子供で黙役)という息子がいる。ジュディッタには娘ジルディッペがおり、彼女とアダルジーソが相愛の仲である。ロタリオの腹心アスプランドとジュディッタの腹心べラルドを巻き込んで策謀が展開されるが、カルロとアダルジーソ両者とも相手方に捕らえられてしまう。細かいところは分からなかったが、結局仲直りしてハッピー・エンドで終わる。ロメオとジュリエットみたいに悲劇にならないところが楽しくって良い。ロタリオを演じたマックス・エマニュエル・ツェンチッチが演出も兼ねているが、彼はこの音楽祭の芸術監督だそうだ。台本は読んでいないが読み替えで王位争いでなく黒服の強面がピストルやナイフで脅すからどこかのマフィアの跡目騒動になっていると思う。

ストーリーはさておき音楽が素晴らしい。まず指揮のジョージ・ペトロウが凄く劇的に音楽を創っている。争いの場面は速いテンポで切迫感があり胸中を歌う時は遅いテンポで情感を出す。その差が極めて大きくドラマティックである。それ以上に歌手がこの上なく素晴らしい。フランコ・ファジョーリ、ツェンチッチ、ジュリア・レジネヴァ、スザンヌ・ジェロムの主役4人、中でもアダルジーソを演じたカウンターテナーのファジョーリは群を抜いていた。美しい声で超絶技巧をこなし演技も迫力があって驚きの名演である。レジネヴァの清楚な声と表現力も印象的である。二人が3幕で絡み合いながら歌う甘美な二重唱はゆったりしたテンポで長いがうっとりとさせられた。男役は全部カウンターテナーだからソプラノばかり聴いてる感じになるが、驚愕の技巧に唖然として3時間半を聴き通した。それも最後は楽しく踊って幕だからセリアでも気分が晴れる。これまで聴いたバロック・オペラの中ではこれが一番と思った。

バイロイト・バロック・フェスティバルは2000年に創設され10年間続いたところで中止になった。それが昨年3年間の暫定計画で再開した。不幸にも昨年は多くの公演が中止になったがこの「カルロ・イル・カルヴォ」は新制作上演され今年2年目になる。レビューがどこかに出ていると思うがまだ見ていない。

辺境伯歌劇場は20年前に見学したがバロック様式の美しい馬蹄形ホールである。ただ傷みが激しくしけ臭かった記憶がある。その後ユネスコ世界遺産に登録されきれいに整備されたようで、500人ほどの小さな劇場だからバロック・オペラには理想的でこれ以上のところはないであろう。



2021.9.12(日) オランダ国立オペラ(operavision) 

出演
スぺイン王女ドンナ・クララ:レンネケ・ライテン
こびと:クレイ・ヒリー
侍女ギータ:アネッテ・ダッシュ
侍従ドン・エストバン:デリーク・ウェルトン  ほか
オランダ国立オペラ合唱団、オランダ・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:ロレンツォ・ヴィオッティ
演出:ナヌーク・レオポルド

オランダ国立オペラの今シーズン開幕公演。若手のホープ ロレンツォ・ヴィオッティが首席指揮者に就任して初のオペラになるが、演目がツェムリンスキー「こびと」とは意欲的である。日本では沼尻竜典がびわ湖ホールで1回上演しただけの珍しいものである。(コンサート形式で同じ指揮者がオーチャードで演奏したことがある)

オスカー・ワイルドの童話「スペイン王女の誕生日」をオペラ化したもの。王女へのプレゼントとして見苦しいが面白いこびとが贈られてくる。こびとは自分の姿を見たことがなく多くの人に注目されるので騎士のつもりでいる。彼は王女に会い一目惚れし自分も王女に愛されていると思い込んでしまう。ところが鏡を見て現実を知り悶え苦しんで死んでしまうという話である。表面的にはそうだが、自分の意識と他人のそれとは違うことから生じた悲劇だからいろいろな解釈ができる。

ナヌーク・レオポルドはオランダの映画演劇で活躍してきた女性演出家でオペラはこれが初めてとのこと。オーケストラは舞台の上、合唱は登場せず、後方に映像が映し出される。歌手は上下左右囲まれたそれぞれの空間で離れて演技する。コロナ対策であろうが、人間の閉鎖的意識を表したものと考えられる。

さて肝心の解釈であるが、今日そのまま上演すれば人権問題になりかねない。レオポルドは王女とこびとを豚と鷹のもっと童話に近い形にした。舞台上の演技は後ろのスクリーンに解釈を施した映像として流される。具体的には頭に豚の冠と両手両足に蹄をつけて野草を剥いだり、後半には泥の中を転げ回る様子を流している。王女と付け人は男の侍従まで同じピンクのスカート衣装だから、ただ単にひとつの集団を表しているに過ぎない。一方こびとの方は王子のような衣装で鏡に映る真の姿は鷹のイメージになっている。原作では王女とこびとは王室の絶対上位にあるが、ここではむしろ立場を反対にしている。だが言わんとする本質は変わらない。

歌手ではこびとクレイ・ヒリーのパワフルで美しい声が光った。ヨハン・ボータを一回り小ぶりにしたような体形だが、アメリカのまだ39歳のヘルデンテナーでベルリン・ドイツ・オペラではジークフリートを歌っているとのこと。その他王女レンネケ・ライテン、侍女アネッテ・ダッシュ、侍従デリーク・ウェルトンも大音量のオケに埋もれることなく歌って素晴らしかった。指揮のロレンツォ・ヴィオッティはまだ31歳の若さで、客演した東響での評判も良かったようである。色彩感のある情熱的演奏が極めて魅力的で、オケもさすがコンセルトヘボウに次ぐ楽団だけあってきれいな音をよく出していた。

「こびと」はほとんど聴く機会がないがオーケストラが派手な音を出すから決して聴き難くはない。でも読み替えのあまりない日本では舞台上演はますます難しいのではと思う。



2021.7.25(日) バイロイト祝祭劇場
出演
オランダ人 : ジョン・ルンドグレン  
ゼンタ : アスミック・グリゴリアン  
ダーラント : ゲオルク・ツェッペンフェルト
マリー:マリナ・プルデンスカヤ
エリック : エリック・カトラー  ほか  
バイロイト祝祭合唱団管弦楽 
指揮 : オクサーナ・リーニフ
演出 : ドミートリ・チェルニアコフ


昨年中止になったバイロイト音楽祭は今年辛うじて再開することが出来た。開幕にメルケル首相は出席したが赤絨毯はなく警備が異常に厳しかったと伝えられている。観客数も半分の900人に抑え、合唱は別室で歌ってスピーカーで流したという。異例の公演となったが、バイロイト始まって以来初の女性指揮者の登場が最大の話題になった。

開幕公演は「さまよえるオランダ人」。指揮はオクサーナ・リーニフ、演出は読み替え専門のドミートリ・チェルニアコフと興味津々である。リーニフはウクライナ出身でグラーツ歌劇場の首席指揮者。バイエルンでペトレンコのアシスタントをしたので、この辺りがバイロイトと繋がったかもしれない。カタリーナ・ワーグナー総裁のネトレプコ起用と似て話題集めの感がなくもない。チェルニアコフの演出はベルリンの「パルジファル」と「トリスタンとイゾルデ」ほかいくつか観たが、いずれも現代の話にした読み替え演出でなかなか面白いと思った。カタリーナ・ワーグナーの依頼を一旦は断ったそうだからどう料理するか興味あるところである。

この演出はこれまでのチェルニアコフの印象を越える大胆な読み替えで、子供の頃オランダ人の母親が受けた恥辱に復讐する話になっている。母はダーラントに弄ばれた上に村八分にされたことで自殺したことが序曲の中の無言劇で示される。マリーはダーラントの妻で、ゼンタは反抗期の問題娘になっている。ここには船もなければ伝説を信じるゼンタの純真な愛もない。糸車の歌もマリーが主宰する合唱団の練習曲に変わってしまい、原作とは何の関係もない。で最後はどうなるかというと、オランダ人は村に火をつけて復讐した後マリーに射殺されるという結末である。マリーとゼンタ母子の愛情が戻るシーンで幕となる。チェルニアコフの読み替えは話としては分かるし面白いと思う。しかしワーグナーの言いたいこととは違うではないか。案の定カーテンコールでは客席が半分なのに随分大きなブーイングが浴びせられた。尤もカタリーナもチェルニアコフもはじめから想定していたことと思うが。

歌手ではバイロイト・デビューとなったゼンタ役のアスミック・グリゴリアンエリック役のエリック・カトラーが気合が入って素晴らしかった。グリゴリアンはリトアニア出身、ザルツブルクで2017「ヴォツェック」マリー、2018サロメ、2020「エレクトラ」クリソテミスと実績を積み上げ、パワフルな声と美貌の演技力で脚光を浴びた。これでバイロイトと両方でデビューを果たしたことになり、今後の活躍が拡がること間違いなしである。ダーラントを演じたゲオルク・ツェッペンフェルトオランダ人ジョン・ルンドグレン、マリーのマリナ・プルデンスカヤは皆さんちょっと戸惑い気味ながらも役柄をこなしていたと思う。リーニフの指揮は重厚なワーグナーとは違うが、速いテンポでメリハリの利いた明解な演奏で、この演出にはマッチしていたと思う。

リーニフとグリゴリアンの華々しいデビューを観れたのが一番良かったと思う。今回のチェルニアコフの演出について言えば、同じ読み替えでもベルリンの方はまだ置き換えの感じが残っていたが、この「さまよえるオランダ人」は原作とあまりにも離れた解釈だと思う。話としては面白いがワーグナーのオペラを観るには完全に遊離していると思った。



2021.9.11(土)16:00 愛知県芸術劇場コンサートホール
出演
小泉和裕指揮 名古屋フィルハーモニー交響楽団
曲目
ブルックナー 交響曲第5番変ロ長調(ノヴァーク版)

緊急事態宣言下で収容人員を半分に減らしての満席公演。ブルックナーはポピュラーとは言えないがその道の根強い信者が多くいる。小泉和裕のブルックナーは8番に続いて聴くことになるが今回はその時よりずっと良い素晴らしい演奏であった。

ブルックナー5番はその後の7~9番に比べると魅力が劣るような気がする。短い繰り返しが多いのが目立ち、それがブルックナーの特徴であるにしても音楽の雄大さ奥深さが一回り小さいように思う。ベートーヴェン(3~9番)やブラームス(1~4番)を例にとってみれば、内容は違っても好き嫌いは別にして、番号に関係なく感動度合いは同じだと思う。ところがブルックナーは追い求めるものが同じなのか最後の方の7~9番の方がより感動が深いように感ずる。尤も自分の鑑賞能力の低さによるとは思うが。

小泉さんは変わったことをして耳目を惹くようなことはしない。よくあるように管を大咆哮させて目立たせるようなことはなく、あくまで適度のバランスを保っている。弦編成が13-11-10-8-7と若干小さめだったのもその意図かもしれない。それだけこの曲の構成力を強調した演奏だと思う。控え目とも見えるが終始緊張感があり、それだけに終結の弦管打全奏の迫力は凄いものがあった。作品そのものは別にして今回の演奏はスタンダードにして尚且つ名演だった。名フィルに大音量を期待するのは正指揮者川瀬賢太郎に任せておけばよい。

声を出すことは自粛されているので、わざわざブラボーと書いて掲げていた人がいた。野球場みたいであらかじめ持参しなければならないから大変と思うが、拍手とスタンディングでは足りないと思うファンにはひとつの方法である。

この日9.11はニューヨーク・テロから20年になる。昨今の世界情勢は中国台頭、イスラム・テロ危機と平和に向かう方向とは思えないが、せめてコロナくらいは相手が人間でないウィールスだから早く収束することを願いたい。



2021.9.3(金)15:00 キッセイ文化ホール(松本文化会館、配信は19:00)
シャルル・デュトワ指揮 サイトウ・キネン・オーケストラ
曲目
ラヴェル:組曲《マ・メール・ロワ》
ドビュッシー:《海》~3つの交響的スケッチ~
ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
ストラヴィンスキー:バレエ組曲《火の鳥》(1919年版)

サイトウ・キネン・オーケストラは設立当初のエネルギッシュな生命感の魅力から変わってアンサンブルの巧さの方が目立つ。メンバーは若い人も加わっているが何せ創設者小澤征爾の実質引退が大きく影響していると思われる。だが音は変わってもスタイルは伝統が受け継がれている。日本だけでなく世界中に散らばった仲間が1年に1度集まってオーケストラ演奏をするわけで、気持ちを一つに合わせようとする心意気は変わらない。

正直なところ最近のサイトウ・キネンには関心が少し薄れていた。指揮者が毎年変わるのは弾く方にとっては意味がある変化かもしれないが、聴く側にとっては常に興味が湧くとは限らない。しかし今回は違いコロナ禍でなければ遠征したいと思った程である。シャルル・デュトワお得意のフランスとロシアものを名手揃いのサイトウ・キネンで聴くことは私にはティーレマンのウィーン・フィルと同じくらい魅力がある。

デュトワは事件以来あまり顔を見ないようで2年前大阪フィルの代役で登壇したのにはちょっと驚いた。現在はヨーロッパでもオーストリアなど比較的小さい国やロシア系のところが多いようだ。サイトウ・キネンに登場するのは初めてで、年齢も小澤征爾とはひとつ違いだから最長老の部類に入る。しかし足腰も指揮振りも元気そのものであった。

今年のフェスティバルは中止になり演奏は無観客でストリーム配信されたものである。指揮者と楽員はカメラに向かって挨拶するものの、演奏後でも楽員だけの拍手では如何にも淋しい。少なくとも空の客席はカメラワークから外した方が良いと思う。どういう意図かは分からないがデュトワは指揮台を使わなかった。16型の大型オーケストラでは初めて見た。指揮棒も持ってなかった。こちらは小澤征爾はじめ多くの例があるが、逆に持たなかった人が持つようになったのは知らない。どうしてだろうか。コンサート・マスターや楽員の並び順も曲ごとに変わるのは発足以来変わらない。それを思うとデュトワも無くてもよいものはすべて取り払い、皆と同じ立場という一体感を演出したのだろうか。独り善がりの空想である。

演奏は期待通り申し分なく素晴らしかった。全体がよくハモった美しい響きでどの曲も同じ一つの雰囲気があった。サイトウ・キネンの音は色彩感があるのに印象派の絵のように円やかに聴こえた。ソロが多く活躍する《マ・メール・ロワ》 など名手の技をみせびらかしても不思議でないが鮮やかに浮き出るようなことはなかった。あくまで全体の中できれいに収まっていた。音の魔術師と言われるデュトワの面目躍如たるところである。また《火の鳥》の弱音から強音に移るダイナミック変化は凄く迫力があった。だが個人的に最も気に入ったのはドビュッシーである。

休憩時間にデュトワと小澤征爾のインタビューが別々に流れた。ふたりは古くからの友人で今回のプログラムはデュトワの提案から小澤征爾が決めたそうである。情報によると演奏も客席で聴いてたそうである。終演後客席からひとり拍手があったが彼だったかもしれない。

日曜日にもう一度配信されるので聴きたいと思っている。



2021.4.29(8/27ストリーム配信)
出演
プロローグ:エド・リヨン
女性家庭教師:サリー・マシューズ、家政婦グロース夫人:キャロル・ウィルソン
子供たちマイルズ:Henri de Beauffort、フローラ:Katharina Bierweiler
死んだ教師ジェッスル嬢:ジゼル・アレン、同召使クイント:ジュリアン・ハバード
モネ室内管弦楽団
指揮:ベン・グラスバーグ
演出:アンドレア・ブレス

モネ劇場今シーズンの新制作「ねじの回転」。劇場閉鎖の中1回だけ無観客ストリーム用に上演収録された。この作品は合唱がないしオケも極小編成だからコロナ禍ではやり易いと思う。

この話はよく分からない。単なる幽霊話でないと思うから何を言いたいのか考えてみてもどうもまとまらない。普通なら分からないなりにも自分なりに一つの解釈をするのだが、このオペラは最後まで曖昧模糊としている。だから幽霊話なんだろうが。

登場人物は3つのグループに分けられる。現世に生きている女性家庭教師と家政婦、その世話になっている二人の子供、幽霊として出てくる前任の女教師と召使。主役は最も出番の多い今の家庭教師だが、置かれた立場から見れば両親もいない後見人も顔を出さない言わば他人任せにされた子供たちではないか。それぞれが問題を抱えて悩んでいるのは分かるがそれが何かはっきりしない。表に出ていない裏のことに大事なことが隠されていると思うが、単に想像するだけでまとまらない。今の女性教師にしても子供たちのこと、前任者のこと、後見人のことなどがあるけれども、それがバラバラに幻想みたいに描かれるだけである。結局のところ彼女はどうなったんだろうと思う。こういう話は理系人間には苦手である。

日本人の感覚からは幽霊はボヤっとした不気味なものと思うが西洋人は必ずしもそうではないらしい。舞台は黒一色で暗いが服装も演技も普通にしている。笑顔がないのも表情が暗いのも誰も皆同じである。この演出では後見人が黙役として登場し、今の家庭教師はその後見人に思いを寄せているようである。同様に前任の女教師も召使が好きだったようであるが召使は嫌っているような演技が見える。何度も言うがだからどうなんだろうか。

指揮者と歌手の多くは英国人。日本のオペラ作品を日本人中心で海外で公演することはまずないから伝統と国際性の違いを痛感する。ベン・グラスバーグは2017年ブザンソン優勝の若い指揮者で、小編成のオケ(13人)を鮮明でパワフルに鳴らした。歌手では主役のサリー・マシューズ。ブリテンやトマス・アデスの英国物が得意のようで他はオペラよりオケの声楽ソロに多く出演している。美しい声で芯の強い歌唱が素晴らしかったが、悩むというより何か闘っている感じが強かったと思う。子役の子供たちが長いオペラをよく歌っていた。

ブリテンでも「ペーター・グライムズ」は良いオペラと思うけれども、この「ねじの回転」は馴染めない。読み替えで気を吐く演出家も多くいるからこの種の不可解なオペラを分かり易くしてくれないかと思う。

 

 

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