くらはしのクラシック日記

~倶楽趣博人(くらはしひろと)の随想クラシックの思い出、Cafe Klassiker Hrを受け継いだブログです~

2022年10月


2022.10.26 バイエルン国立劇場(Staatsoper tv)
出演
フィオルディリージ:ルイーズ・アルダー、グリエルモ:コンスタンティン・クリンメル
ドラベッラ:エイヴェリー・アメロー、フェランド:セバスティアン・コールヘップ
デスピーナ:サンドリーヌ・ピオー、ドン・アルフォンソ:クリスティアン・ゲルハーゲル
バイエルン国立歌劇場合唱団、管弦楽団
指揮:ウラジーミル・ユロフスキー
演出:べネデォクト・アンドリュース

バイエルン国立歌劇場今シーズン新制作、半年ぶりのライブ配信である。「コジ・ファン・トゥッテ」は表面的には不道徳なラブ・ストーリーだが奥に潜む人間心理の妙を表してモーツァルトのオペラの中では一番好きである。ただ舞台上演の良しあしは演出家の解釈によって変わるし、一般の評価も一様にならないのが普通である。私は大変良かったと思う。満員の聴衆の反応もかなり盛大だったからまずは好評ということであろう。

オペラの演出を考える時第1に台本をどう読み込むかということと、第2にそれをどう表現するかの2つの問題がある。演出のアンドリュースは「恋人たちの学習」というコンセプトを掲げて、恋人たちが目出度く結ばれるのでなく一度ご破算にしてよく考えよと教訓めいた結論にしている。舞台ではポルノ紛いの大胆な行為が頻繁に演じられる。序曲からして覆面のドン・アルフォンソとデスピーナの如何わしい場面で始まる。恋人たちもひらひらのミニワンピースでビキニ姿にもなるが、この程度ならヨーロッパでは普通と思う。だから解釈の内容で判断すべきと私は思う。

舞台は極めてシンプル。大きな部屋にベッド、車庫にRV、夜の夾竹桃の茂みと各場面ともほとんど一つの小道具しかなく、薄汚いベッドだけがずっと出てくる。そこで恋人たちが演じる行いは映画みたいに大胆にして細かいからセックス・ストーリーと思われても仕方ない。しかしちょっと考えてみると以外に真面目な解釈をしていると思う。登場人物6人の中でフィオルディリージとデスピーナを一段浮き上がらせているように思える。フィオルディリージは真面目な考えを持つ女性で2幕の葛藤で苦しむ場面では花吹雪を降らせ美しさを讃えているように思った。もう一人のデスピーナもよくあるドン・アルフォンソに踊らされた無邪気な娘でなく、酸いも甘いもわきまえた利口者として描いていた。それは一同揃ったフィナーレでデスピーナがベッドを焼き払うことではっきりする。恋人たちに過去を清算させる意味であり、将来の導きでもあったと思う。同時にデスピーナ自身の改心でもあり、逆の立場で見れば性欲異常者の悪戯に勝ったということでもある。

歌手はゲルハーゲルとサンドリーヌ・ピオーのヴェテランに恋人たち4人の若手を組み合わせた、この演出には理想的なキャストと思った。しかもデスピーナとフェランドを除いた4役は皆初役とのことで新鮮味が出たと思う。期待通り演技の負荷が過大なのに歌唱が崩れなかった。ユロフスキーの甘美でなく無機質ではないがドライで理知的な演奏によくマッチして素晴らしかった。個別にはフィオルディリージを演じたルイーズ・アルダーの清くて艶のある声、フェランドのセバスティアン・コールヘップの甘い声、ゲルハーゲルの知性のある端正な歌唱が耳に残った。サンドリーヌ・ピオーはこの演出のデスピーナに相応しく大人の冷めたような歌い方だったのは流石と思う。グリエルモのコンスタンティン・クリンメルはまだ20代だそうで物怖じしない歌唱と激しい動きに感心した。ドラベッラのエイヴェリー・アメローは低い方の声に魅力があり力強さが出ればいずれ大役を歌うと思う。

「コジ・ファン・トゥッテ」は通常人間の気持ちは変わり易いという一般論で終わるが、ここでは日頃真面目な人間でもふらっとすることがあるともう一段突っ込んだ読みをしていた。またデスピーナ像が通常と違って面白い解釈であった。ペトレンコの後を引き受けたユロフスキーの演奏も理知的で新鮮味のあるモーツァルトであった。



1998年 リヨン歌劇場(medici.tv)
出演
エウリディーチェ:ナタリー・デセイ
オルフェオ:ヤン・ブロン
ジュピテル:ローラン・ナウリ
プルトン/アリステウス:ジャン=パウル・フーシェク
世論:マルテン・オルメーダ、キューピット:カサンドル・ベルトン  ほか
リヨン・オペラ合唱団、管弦楽団、グルノーブル室内管弦楽団
指揮:マーク・ミンコフスキー
演出:ローラン・ペリー

ギリシャ神話オルフェオを題材にしたオペラは30を超えるとも言われて、有名なものだけでもモンテヴェルディ、グルック、オッフェンバックと3作品がある。この中オッフェンバックは純粋な愛の物語を互いに愛人がいる夫婦の滑稽な風刺劇に変えてしまった。日本では「天国と地獄」の題名になっているがドタバタ騒ぎには上手い訳だと思う。カンカン踊りは運動会徒競走のBGMで誰でも身近に聞いている。

この映像はデセイ若い頃のもので俳優志願だった彼女の面目躍如たるところが見える。デセイは現在舞台オペラを引退し女優業をしているそうだが、コンサートには出演していて来月来日してオペラの曲を歌うことになっている。

オペレッタは軽快さが命。それが音楽だけでなく演技にも不可欠で、特に舞台上の打てば響くような会話と生き生きした動きがないと面白くない。歌唱優位のオペラとはそこが違う。ローラン・ペリーの舞台は地味な色のセットでメルヘンチックな衣装を着け表情豊かに動き回るので観ていて実に楽しい。バレエや曲芸で目を楽しませたり、台詞が漫才コンビの口調のように聴こえた。

古い映像なので深入りしないがデセイのオペラ歌手とは思えない顔の表情や身のこなし、オルフェオのヤン・ブロンの甘い声と美形、オッフェンバックの体制批判とはっきり分かる世論マルテン・オルメーダのひとり真面目な姿が印象に残っている。パリの街を歩いてもメタボな人はほとんど見ないが、歌手もご多聞に漏れずスタイルの良い人ばかりであった。

音楽の方は演技と一体になった歌手の歌唱よりもミンコフスキーのオケの方に気が行った。きびきびしたリズム感と歌心があり言うことなしの素晴らしさだった。

デセイがお目当てではあったが他の人も皆素晴らしく、これほど心底から楽しめるオペレッタもそうないと思った。英語字幕で観たが字幕なしでフランス語が分かればもっと楽しかったと思う。

なおヤン・ブロンもオペラ歌手では若いのに舞台オペラからは引退と伝えられている。デセイと同じく自分の殻を守って身を引くというのも潔いと思う。ついでにもう一つ。日本で初めて上演されたオペラはグルックの「オルフェオとエウリディーチェ」であった。東京音楽学校の公演でその時のエウリディーチェは三浦環であった。


2022.10.21 ケルン・フィルハーモニー(WDR-web)
出演
カタリーナ・ペルシッケ(ソプラノ)、マリー・ヘンリエッテ・ラインホルト(メゾ・ソプラノ)
マシュー・スウェンセン(テノール)
サイモン・ハルシー(指揮) WDR放送合唱団、WDR交響楽団

メンデルスゾーンがグーテンベルク印刷技術400年記念式典の為ライプツィヒから委嘱された作品。讃歌(賛歌)とは何かをほめたたえる歌だからグーテンベルクを祝ってもよい訳だが、歌詞が旧約聖書からとられているので実際は神を讃える宗教曲である。

外観上はベートーヴェン第9交響曲に似て第4楽章に当たるところに独唱合唱が入った形になっている。最初気付かなかったが合唱がオーケストラの後ろに並んだ通常とコンサートかと思ったが、客席前方にそれより大勢のアマチュアが参加していた。アマチュアが合唱を受け持つのでなくプロと一緒になって歌うというのがこの演奏会のコンセプトだったようだ。

サイモン・ハルシーはベルリン放送合唱団を長く率いてきた合唱指揮者でこのアマチュア参加のプロジェクトの為にWDRに招かれたとのことである。練習はコロナ禍で一同会してのリハーサルの他にインターネットを通しても行ったと報じていた。いろんなところで音楽の新しい試みがなされているようである。

演奏の方は合唱に気分良く歌ってもらうことの方にウェイトが置かれていたように感じた。祝典的性格を持つ最初と最後は迫力があって良かったが、全体に変化に乏しかったと思う。その分信仰心が強く表れたかというとそうでもなかった。聴かせることが主目的でないとすればある面止むを得ないかもしれない。

WDR響は昔のケルン放送響。当地出身の荻原尚子がコンサート・ミストレスを務めている。他にも数人日本人らしき顔が見えた。ドイツの放送局所属オーケストラはWDR,NDR,SWR,hrと略号が正式名称になったところが多い。ベルリン、バイエルンのようにそのままの呼び方では何か不都合があるのだろうか。NHKの如くひとつだけならそれもありかと思うが単に国際線の空港コードみたいな区別では品格を感じない。

尚日本でも藤倉大と山田和樹がネットを使った合奏を実験として模索していたが、別ジャンルのお遊びの音楽であって欲しいと思う。



2022.10.20(木)18:45 愛知県芸術劇場コンサートホール
出演
アリス=紗良・オット(ピアノ)
クラウス・マケラ(指揮) パリ管弦楽団
曲目
ドビュッシー:交響詩≪海≫
ラヴェル:ピアノ協奏曲ト長調
(ソロ・アンコール) ?
ストラヴィンスキー:火の鳥(全曲)
(アンコール)グリンカ:「ルスランとリュドミーラ」序曲

聞きしに勝る名演であった。今回のマケラとパリ管の日本ツアーは2つのプログラムで行われているが、最初の曲は両プロともパリ管得意中の得意交響詩≪海≫で始まる。Aプロのボレロと春の祭典よりこのBプロの方が30分近く長いから1曲分多く聴いた感じである。

マケラは指揮台に上がって会場が静まり返ってもなかなか演奏を始めない。海の夜明け前の長い時間を想わせる。この気持ちはバイロイトに初めて行った時暗闇で待つ指環に似ている。音が鳴り始めれば後はもうオケの音に酔い痺れるだけであった。マケラの指揮は特に変わったことをやってるようには思えないが、大きなうねりの中に見せる表情が極めて豊かである。ドビュッシーで最初に好きになった曲で音楽喫茶に通って聴いた昔を思い出した。

アリス=紗良・オットのラヴェルがまた素晴らしかった。ピアノ協奏曲はピアノストの独演になったり指揮者にひっぱられたりすることがあるが、この演奏は稀に見る調和のとれた一体感があった。曲そのものがオーケストラの各ソロとピアノの二重協奏曲みたいでパリ管もやる気が出ると思う。こういう時にマケラは出しゃばらない。オットのピアノが清らかな音で詩情を表現するから色彩感のあるオケと相性がとても良かったと思う。第2楽章が特に美しかった。ソロのアンコールも本番の延長のような静かな曲で印象的であった。(曲名は聞き取れなかった)

後半の火の鳥、通常コンサートでは組曲版が多いと思うが意欲的に全曲。実はコンサートで全曲を聴くのはこれが2度目だったがやはり長いと思う。バレエを観てればそう感じないかもしれないが正直途中で集中がちょっと途切れた。しかしパリ管の音が鮮やかだしフィナーレは大迫力だったので終わってみればそんなことは飛んでしまう。

アンコールのルスランとリュドミーラは超特急の見事な快演。フランスのオケはひとりひとりは凄い名手なのに合わせるのは下手と言われたのは遥か昔の話と改めて思った。

長いプログラムにアンコールが2曲もあり2時間半を優に超えていた。帰るのに1時間以上かかるから平日のコンサートはきついと感ずるようになった。しかしマケラとパリ管はブルックナー8番の競演となったウィーン・フィルとベルリン・フィル以来の鮮烈な出会いで大満足であった。



2022.10.15 マイスタージンガーハレ・ニュルンベルク(BR-KLASSIK)
出演
マーリス・ペーターゼン(ソプラノ)
ヨアンナ・マルヴィッツ(指揮) ミュンヘン州立フィルハーモニー管弦楽団
曲目
レーラ・アウエルバッハ:交響曲第5番「失楽園」(世界初演)
R.シュトラウス:4つの歌 Op. 27から「
                      4つの最後の歌 Op.150から「眠りにつくとき」
                     4つの歌曲Op.27から「ツェツィーリエ
R.シュトラウス:組曲「ばらの騎士」
                    「サロメ」からヴェールの踊りとフィナーレ


ニュルンベルク州立フィルはニュルンベルク劇場のオーケストラで音楽監督はヨアンナ・マルヴィッツ。歌劇場はバイロイトとミュンヘンに挟まれ日本では知名度が低いがかってティーレマンが音楽監督を務めていたことがある。州立フィルは1922年歌劇場のオーケストラと民間のフィルハーモニーが合併して生まれた。これは100周年祝祭コンサートのひとつで、会場のマイスタージンガーハレは「ニュルンベルクのマイスタージンガー」から命名された。この楽劇はワーグナーがニュルンベルクを訪れたのがきっかけで生まれ、市内にはハンス・ザックスの銅像もある。

このコンサートには3人のヒロインがいた。1人目はレーラ・アウエルバッハ。ロシア生まれのアメリカ人で現役のピアニスト兼作曲家である。交響曲第5番はニュルンベルク・フィルの依嘱作品で世界初演。ミルトンの「失楽園」に触発されて作曲したそうで、神の掟を破ったイヴを自身に置き換えているのであろうか。旧ソ連時代の核実験の地で育った彼女は自由を求めてアメリカに亡命しジュリアードで学んでいる。20世紀の楽器も取り入れた大規模で4管の曲だが、メロディーは随分と古典的であった。暗く重苦しい雰囲気の中に叙情的なヴァイオリン、清澄可憐なグロッケンシュピール、悲哀に満ちたオンド・マルトノなどのソロが現れる。現代音楽らしくない聴き易い音楽であった。

2人目はマーリス・ペーターゼン。昨年バイエルン州から宮廷歌手の称号を授与された。彼女はニュルンベルクから輝かしいキャリアが始まったので謂わば里帰りコンサートである。満員の聴衆から盛大な喝采を浴びていた。全部R.シュトラウスだったが歌曲は叙情的にサロメは極めてドラマティックに歌い上げていた。サロメを演ずるのはそろそろ限界と思うがステージ奥から出て下手上手と動き最後は倒れての大熱演であった。

3人目はドイツの若い指揮者ヨアンナ・マルヴィッツ。ザルツブルクの素晴らしいモーツァルトで知ったが、ニュルンベルクの音楽監督は1期22-23シーズンで退任しベルリン・コンツェルトハウスの首席指揮者に移ることになっている。サラリーマンなら栄転と言ったところだと思う。長い腕をしなやかに使った流麗なメロディーラインと機敏な動きでリズムにアクセントをつける、なかなか棒さばきが美しい。抽象的なシンフォニーより具体的なオペラの方が情景をストレートに表現し易いと見え、サロメが最も活き活きして素晴らしかった。

100周年記念のプログラムにしては委嘱作品は別にして細切れの感が強い。演奏は良かったけれどもやはり3人にスポットを当てたコンサートのように思った。


2022.10.15 ウィーン国立歌劇場(VSO-live)
出演
イエヌーファ:アスミック・グリゴリアン
ラツァ:デイヴィット・バット・フィリップ
シュテヴァ:マイケル・ローレンツ
コステルニチカ:エリスカ・ワイソヴァ
祖母:マルガリータ・ネクラソワ  ほか
ウィーン国立歌劇場合唱団、管弦楽団
指揮:トマーシュ・ハヌス
演出:デヴィット・パウントニー

ウィーン国立歌劇場今月のライブ配信はどれも期待して観たいと思うものがない。「イエヌーファ」はストーリーが好きでないがグリゴリアンが題名役とあって観る気になった。歌手陣は全て素晴らしく真実味のある舞台であったが話が悪く楽しめなかった。

イエヌーファが子供まで宿した好きなシュテヴァに捨てられ異父兄のラツァと再出発する話である。その出来事が放蕩者との恋と三角関係、傷害事件、子殺しと今日ありそうなことなので親近感がある。演出も極めてリアリスティック、出演者も一同自然に振舞っているので、実際あったような錯覚に陥る。

だがちょっと考えると随分可笑しなストーリーである。若い3人の主人公の境遇が普通でなく実の父母は皆死に祖母か継母と生活し同じ工場で働いている。細かい説明は省くが要するに両親のいない従兄妹通しの三角関係という設定である。だからどうなんだという話はどこにもない。継母が血のつながりのない娘のためにその子を殺すというのも変だと思うし、そうならいっそのこと血縁などなくてもよいではないかと思う。

表面的には生々しい人間ドラマだがオペラとして好きになれない理由がある。放蕩者はオペラの常道だがどこか憎めないところがあるものである。しかしシュテヴァは誠意の欠片もない人間で許せない。惚れたイエヌーファの方も女心かもしれないが、彼女の境遇からはジルダのように可哀そうに思う気になれない。(「リゴレット」も好きでないが) しっかりせいと言いたくなる。イエヌーファとラツァの新しい門出を祈りたいと思う前にそれ以前の出来事の方に気が行ってしまう。

歌手の中で最高に栄えていたのは継母コステルニチカのエリスカ・ワイソヴァ。ウルマーナの代役だったそうで感情の入ったパワフルな歌唱と演技で際立った存在感があった。イエヌーファのグリゴリアンは叙情的な歌唱力に加えて日常のリアルさが自然で舞台によく溶け込んでいた。ラツァのバット・フィリップも一途な思いを真面目そうに演じて良かった。シュテヴァのマイケル・ローレンツはラツァとの対比でもっと踏み外してもよい様にも見えたが、過剰でないところがむしろ良かったかもしれない。トマーシュ・ハヌスは新国「イエヌーファ」の指揮者でもあった。その場によく合ったヤナーチェックの雄弁な音をだし、歌手の意声とのバランスが特に良かった。

考えると変に思うが舞台の進行に任せて観ていると映画のようなドラマだった。尚ザルツブルクのサロメで名を売ったグリゴリアンは来月来日してノットの東響でサロメを歌うことになっている。コロナ禍から漸く抜け出せたようだ。

 

 


2022.10.14 アルテ・オーパ・フランクフルト(hr sinfonieorchester-web YouTube)
出演
ハンナ=エリザベス・ミューラー(ソプラノ)
コンスタンティノス・カリディス(指揮) hr交響楽団(フランクフルト放送交響楽団)
曲目
アルヴォ・ペルト:サーム(詩篇)弦楽オーケストラのための
ニールセン:アラジン 付随音楽(抜粋)
ラヴェル:シェエラザード(管弦楽付き歌曲集)
アルヴォ・ペルト:サーム(詩篇)弦楽四重奏のための
チャリオラス・ペルペサス:キリスト交響曲

こういうコンサートに巡り合うとは思わなかった。大曲や現代音楽特集ならいざ知らず、どの曲も初めてというプログラムは恐らくクラシックを聴き始めたころまで遡るのではないか。なかなか面白いと思ったし、それに独唱者のエリザベス・ミューラーも聴きたいと惹かれた。

各曲の前に必ずアルヴォ・ペルトのサームが演奏されるというのも初めてである。ペルトはソ連に苦しめられたエストニアの現代作曲家、それにサームは讃美歌のようなものだからこのコンサートはウクライナの戦争犠牲者に捧げる意味があったと思う。ミューラーも黒一色のドレスであった。 

コンサートのタイトルに安らぎの交響曲とあったが全体的に穏やかな曲である。言うまでもなくアラジンもシェエラザードも共に千夜一夜物語の中の話である。リムスキー=コルサコフのシェエラザードと違ってラヴェルのは内面的で静かで美しい。ちょっと憂いを帯びて可愛らしさがある。ミューラーの清らかな声がよく合っていたし、今回はその上に力強さを感じた。特にきれいな高音が素晴らしかった。

後半はペルペサスのキリスト交響曲。ペルペサスは丁度20世紀の初めから終わりまで生きたギリシャの作曲家で、キリスト交響曲は戦後の作品である。20世紀は戦争と無関係ではあり得ない。キリストの名が付く曲を戦争犠牲者の弔いの意味に理解するのは自然であろう。しかし私にはこの曲から宗教心をあまり感ずることが出来なかった。現代の作曲家に含まれても音楽はロマン派でマーラーの誇張とドビュッシーの朦朧さが合わさったような響きであった。ギリシャの指揮者がギリシャの作品を呼び起こそうとする気持ちは分かるが、これは標題を置いて音楽として聴くのが良いと思った。

ラヴェルの歌曲は聴いたことがなかったので良い収穫になった。

 

 


2022.10.7 ウィーン国立歌劇場(VSO-Live)
出演
ソプラノ:ヴェラ=ロッテ・ベッカー
アルト:モニカ・ボイネック
テノール:ダニエル・イェンツ
バリトン:フローリアン・ベッシュ  
ウイーン国立歌劇場合唱団、児童合唱団、管弦楽団
指揮:ロレンツォ・ヴィオッティ
演出:カリクスト・ビエイト

マーラーの「嘆きの歌」と「亡き子を偲ぶ歌」を結んでオペラにしたもの。バレエ曲でない音楽に振り付けしたり、宗教曲を舞台化するのと同じで目新しさは感じない。マーラーはウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めていたからその劇場が制作したというのが意味あることかもしれない。でもマーラーは喜ぶであろうか。

外観上メルヘンチックな「嘆きの歌」と叙情的な「亡き子を偲ぶ歌」をオペラにするには脚色がいる。原作に会話はなく語りだけだからその意味を可視化することになるがその時に演出家の独創が入る。オペラの読み替え演出をするようなものである。端的に言って太い骨格は「兄に殺された弟を両親が悲しむ」というストーリーになっている。声楽パートはバリトンが兄と父親、テノールが弟、アルトが弟の恋人と母親、ソプラノが花つまり女王、ボーイ・ソプラノとアルトは骨の役を演じているようだ。ここまでは想像できるが個々の場面は理解しかねることばかりである。

ビエイトの演出は装置は抽象的、演技は刺激的である。幕が開くと全員が真っ白の衣装で人々がめいめいに植木を持って入ってくる。これは森を表しているが問題はその後である。7色のケーブルの束が垂れ下がりひとりひとりがその端を持って動き回っている。何を表しているか分からないがこれが最後まで続く。その前で時に性的であったり残酷な演技が行われる。腕を切断して骨を取り出し笛を作るとか、生まれた子が死産のカラスであったり、薄気味悪かった。勿論そんな場面は原作にない。これだけ刺激的なことをやっておいて幕切れは暗くなるだけ、何だかアンバランスだった。

しかし音楽はソロ、合唱、オケとも素晴らしかった。ロッテ・ベッカーはクリアーな声で正確に美しく歌った。モニカ・ボイネックはプレミアの後急遽ジャンプインしたそうで、演技面でも目立ったが歌唱が素晴らしく特に後半の偲ぶ歌が深みがあって良かった。フローリアン・ベッシュは前半の荒々しさと後半の温かさの両面を劇的に演じ、フィナーレは慟哭の感があった。

これならコンサートで音楽だけ聴いた方が良かったと思う。元々オペラ化の発想が良かったかどうか疑問に思うし、それは措いてもマーラーの音楽は感情の起伏が激しくてどぎつい面があっても可笑しくないとは思うがビエイトの演出は理解を越えていた。



2022.10.8(土)16:00 愛知県芸術劇場コンサートホール
出演
金川真弓(ヴァイオリン)
ヴァシリー・シナイスキー(指揮) 名古屋フィルハーモニー交響楽団
曲目
リムスキー=コルサコフ:歌劇「金鶏」より序奏と婚礼の行列
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第2番ト短調 作品63
(ソロ・アンコール)クルターグ:
           「ヴァイオリンのためのサイン、ゲームとメッセージ ― J. S. B へのオマージュ」
ショスタコーヴィッチ:交響曲第5番ニ短調 作品47

2年前コロナ禍で来日不能となったシナイスキーと名フィルの演奏会。今度はロシアのウクライナ侵略でロシア人指揮者がオール・ロシア・プログラムではどうなるかと思ったが予定通り挙行された。シナイスキーはロシアの名匠だが現在ロシアには住んでおらず、祖父もウクライナ人だそうで、侵攻直後に逸早く反対の声明を出している。曲目も一時の過剰反応は収まり作品を芸術として聴けるようになったのでプログラムの変更もなかった。因みにシナイスキーは現名フィル音楽監督小泉和裕とカラヤンコンクールで1位を分け合った指揮者である。そんなことで逆に盛り上げようと意識しいつも以上に意気込みが感じられた名フィルであった。

始めの「金鶏」はリムスキー=コルサコフが当時のロシア帝政を批判した作品である。プログラムが決まったのは侵攻前のことなので直接の意図はなく得意曲として選択したものと思うが、それが結果的にシナイスキーの現在の立場を表明することにもなった。華やかな曲で出だしから聴衆を引き付けてしまった。

金川さんのヴァイオリンは素晴らしい。きめ細かく滑らかな柔らかい音色でしかも奥深くあいまいなところがない。オケがソロを消すことなく、攻撃的でない2番は彼女にお似合いで1,2楽章が特に美しかった。使用楽器がこれまでのドイツ演奏家財団所有のグァルネリウスから日本音楽財団のストラディヴァリウスに変わって今回が初演奏とのことだった。

中でも一番良かったのはショスタコーヴィッチ。普通良く聴く戦意高揚のストレートな演奏でなく細やかな表情が見えるものだった。プログラムの解説にあったが最近のショスタコーヴィッチ研究によると第5番の解釈が随分と変わってきていると言う。「共産党体制迎合曲」から離れて「ある女性への強い思慕」という説が出てきて極端な意見として「ラヴ・ソング」と言い切るロシアの研究者もいると書いてあった。研究は研究としてこの第5番が恋歌とはとても思えない。あくまで主目的はプラウダ批判をかわすことであったと思う。ショスタコーヴィッチは多情な性格であったから愛人のことを分からないように隠したことはあるかもしれないがそれが本題ではなかろう。裏付けデーターを別にして曲だけ聴けば、ベートーヴェンの5番が1人の女性を大勢で争って勝ったみたいなことになってしまう。音楽は再現芸術だから聴く者がどう思うかの方が先だと思う。ここではシナイスキーの表情付けが実に素晴らしいと思った。特に弱音に気を使い例えばヴァイオリンを半数で弾くようなことをしていたし、アクセントを付けたりリズムを強調して表情豊かなアーティキュレーションを生んでいた。迫力も満点でこういうショスタコーヴィッチ5番はこれまで聴いたことがない。

特筆すべきは名フィルのアンサンブルが見事で実によく合っていた。音楽は中味との私見は今でも変わらないがピタッと揃えばそれに越したことはない。今日の名フィルは弦のアンサンブルの良さが目立ち管と相まっていつも以上の素晴らしい演奏であった。やはり指揮者であろうか。


2022.9.11 デュッセルドルフ・オペラ劇場(operavision)
出演
マクベス:フロルフール・セムンドソン
マクベス夫人:エヴァ・プロンカ
バンコー:ボグダン・タロシュ
マクダフ:エドアルド・アラドレン
マルコム:ダヴィッド・フィッシャー  ほか
ライン・ドイツ・オペラ合唱団、デュッセルドルフ交響楽団
指揮:アントニーノ・フォリアーニ
演出:ミヒャエル・タルハイマー

ライン・ドイツ・オペラは同じ州に属するデュッセルドルフとデュースブルクのオペラハウスを統一した団体で劇場もオーケストラも2つある珍しい組織である。この新制作「マクベス」の映像は6月にデュースブルクで初演されたもののデュッセルドルフでの再演になる。したがって指揮者とオーケストラが違いキャストも一部が変更になっている。

先回ベルリオーズの交響曲「ロメオとジュリエット」を聴いたが、これも同じシェイクスピアの戯曲をヴェルディがオペラ化したもの。シェイクスピアはワーグナーと同様頭の中で考えたフィクションなので普通のイタリア・オペラの好き嫌い憎いの感情を露にした台本とは違う。その上に演出も抽象的であった。

舞台はスケボーのハーフパイプのようなすり鉢状で終始暗闇と霧の中で進行する。すり鉢はアリ地獄であり人間の権力欲は一度取りつかれるとそこから抜け出せず最後は自業自得の地獄が待っていると訴えかけている。暗闇と霧は殺人の場を表しているだけでなく、観る者に血まみれの刺激を和らげていた。タルハイマーの新しい解釈はバンコーをマクベス夫人同様の人間として描いていることである。つまり魔女の予言を聴いてバンコーは己がマクベスを殺して権力を早く手に入れたいと思うし、その結果王になるはずのバンコーの息子は血を吐く結末にしている。本筋での読み替えはなく焦点が明確な良い演出と頭では思うが観た気分は極めて重苦しい。やはりバンコーは(マクベスも)善人であって欲しいし、フィナーレは解放された人間の喜びで終わって欲しいと思った。同時に今のあの独裁者に見せたいとも思った。

指揮のフォリアーニはイタリア・オペラで実績を積んだ堅実な演奏だった。歌手は舞台がシンプルだけに演技でカバーする必要があり、動きにくいセットの中で血塗りの姿で奮闘していた。感情よりも心理を表現する面が強く、歌手は全般に声を聴かせるような歌い方ではなかった。マクベス夫人のエヴァ・プロンカのきつい声は役柄に合っていたし、血にまみれダンスのような体のひねりで狂気を演じていた。それに対し男声は概してオーソドックスであったが、マクダフのエドアルド・アラドレンだけはイタリア・オペラらしい感情豊かな声を出していた。

ドイツ・オペラを観てる感じはしたが歌手は素晴らしかった。日本ではメジャーのオペラハウスでないと名前を聞かないがこのような秀逸の公演が出来るのはさすが本場である。

 

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