くらはしのクラシック日記

~倶楽趣博人(くらはしひろと)の随想クラシックの思い出、Cafe Klassiker Hrを受け継いだブログです~

カテゴリ:ネットオペラ > その他


2022.10.14&16 トゥールーズ・キャピトル劇場 NHK-BS)
出演   
ルサルカ:アニタ・ハルティッヒ   
王子:ピョートル・ブシェフスキ   
ヴィドニク:アレクセイ・イサーエフ   
イェジババ:クレア・バーネット・ジョーンズ
外国の王女:ベアトリス・ユリア=モンゾン   ほか   
トゥールーズ・キャピトル劇場合唱団国立管弦楽団   
指揮:フランク・ベールマン
演出:ステファノ・ポーダ


1年半程前トゥールーズ・キャピトル劇場のシーズン開幕を飾ったものでイスラエル・オペラとの共同新制作である。ステファノ・ポーダはイタリア人だが舞台セットから衣装、照明、振付まですべて一人で担う評判の演出家らしいが私は初めて観る。フランス歌劇場のオペラは概して洗練されていて目を楽しませてくれる舞台が多い。

演出のステファノ・ポーダは読み替えを全くしない。台本に忠実でそこに含まれる今日的解釈を創造的に舞台化する。この舞台も実に見事で美しい。1幕(3幕も同じ)は三方を格子状半透明の青白い壁で囲みステージは端の狭い通路を除いて全面水をはったプール。2幕は一転してプリント基板模様の黒い壁でペットボトルのゴミ山を片付けその後に拵えた舞踏会場。白と黒の対比は水の精(自然と言ってもよい)と人間が別の世界に住み相容れないことを表している。もう一つ舞台の中心を占めるのは左右一対の大きな手。これはイェジババ(魔女)の象徴で水の精が魔女の掌の中で操られている、つまり自然は人間がコントロールできないことを表しているようだ。

それに加えて演ずるのが歌手だけでなく16名のダンサーであること。むしろその人達の方が舞台を見せる立役者になっている。1幕では彼ら水の精たちが薄い白のベールをまとい、プールに浸かりっ放しで転げ回わる。足首程度の深さだけでなく一部は胸までつかるほど深い。風邪をひかないかと心配になった。2幕になると彼らは厚手の舞踏服に着替えて整然と踊る。3幕は振付けは違うがまた水の中である。特別の意味はないと思うが舞台の生きた背景として目を見張るものがある。

演出主導で歌唱は特に女声の方が役柄にマッチしてないところがあると感じた。演出家の要求を強く意識し過ぎたのか感情が十分伝わってこない。ルサルカハルティッヒはウィーン国立歌劇場と来日したことがあり、立派な歌唱ではあったがルサルカの初心さとか可哀そうな感じがあまりしなかった。イェジバババーネット・ジョーンズは丸坊主で勇ましい外形に似合わず歌唱は力強い凄味がなかった。外国の王女のユリア=モンゾンもルサルカとの対比で傲慢さが足りないように思った。それに比べると男声の方が良く、王子ピョートル・ブシェフスキは普通に歌ってるだけのようだが若さと華やかな感じがあったと思う。一番素晴らしかったのはヴィドニクアレクセイ・イサーエフで力強く温かい声で高貴で優しい父親役を演じていた。特に1幕は胸まで浸かった中で歌ったのには驚いた。ダンサーと違ってボデースーツを着ていたがそれにしても役者根性が凄い。ベールマン指揮のオーケストラも叙情ある演奏でドヴォルザークの美しい音楽を鳴らして素晴らしかった。

この公演は聴くオペラと言うより見るオペラの感がした。最大の称賛はダンサーに与えられるべきと思うが、カーテンコールでも一番拍手が大きかったから同じ受け止めをしたと思う。



2024.2.10 ナショナル・テアター・ミュンヘン(YouTube)
出演
ゲルマン:ブランドン・ジョヴァノヴィッチ
リーザ:アスミク・グリゴリアン
エレツキー公爵:ボリス・ピンハソヴィチトムスキー伯爵:ロマン・ブルデンコ
伯爵夫人:ヴィオレッタ・ウルマーナ、ポリーナ:ヴィクトリア・カルカチェヴァ 
チェカリンスキー:ケヴィン・コナーズスーリン:バリント・ザボ   ほか
バイエルン州立歌劇場合唱団、管弦楽団
指揮アジス・ショハキモフ
演出ベネディクト・アンドリュース

バイエルン州立歌劇場は音楽監督が2代続けてロシア人で、それと直接関係はないと思うがロシアものが目につく。昨シーズンの「戦争と平和」とこの「スペードの女王」共にロシア文学を基にしたロシア作品である。重厚なのは好きだが重苦しいのはあまり好まないのだが新制作なので観た。

オーストラリアの演出家アンドリュースの解釈はとにかく暗い。彼は主人公ゲルマンをギャンブル狂の妄想に囚われる精神異常者と考えたようである。時代を現代に移しゲルマンと恋人リーザの悲劇だけに焦点を当てている。舞台は夜のオートキャンプ場、賭博場、劇場と暗いところばかりである。子供たちがはしゃぐ場は暗い中に遠くから聞こえる声だけ、華やかな舞踏会もカットされている。ゲルマンを妄想狂と思ったのは伯爵夫人(スペードの女王)の寝室の場。そこは夜の水浴び場になっていて夫人のショック死がゲルマンの妄想による溺死殺人になっていたからである。殺してしまっては秘密も聞き出せないし、リーザが殺す気がなかったと思うのも辻褄が合うような気がする。しかしゲルマン以外は皆普通に行動しているので1人が異常なのに周りがそれに気づいていない。そういう状況で起きた事件は現代間々ある。アンドリュースはそれが言いたかったのではないだろうか。

演出は良いと思わなかったが音楽は素晴らしかった。ロシア語だから歌手は旧ロシア圏が主体にならざるを得ないと思うがこの情勢では皆西欧に拠点を移している人達であろう。脇に至るまで素晴らしい人が揃っていた。タイトルロール伯爵夫人のウルマーナは出番が少なく演技もほんの僅かな動きしかしないがそれこそ女王の貫禄十分。昔を懐かしむアリアは聴かせた。リーザの婚約者エレツキー公爵ピンハソヴィチはロシア人。華麗な美声でリーザへの愛の告白は天下一品だった。歌唱では一番強く印象に残った。ひとりダブルのスーツで演技はほとんどないがそれが却って真面目さが出て良かったと思う。同じくロシア人でトムスキー伯爵ブルデンコとポリーナのカルカチェヴァも主役級の歌唱を披露した。主役を務めたゲルマンジョヴァノヴィッチはアメリカ人、リーザグリゴリアンはラトヴィア人である。リーザのキャラをどう演ずべきか分からないが少なくともオネーギンのタチアーナとは違うと思う。芝居の中ではタチアーナは成長した女性、リーザは変わらぬ女性である。グリゴリアンはあまり感情的でなくただひたすら孤独で寂しい女性のように演じていた。ジョヴァノヴィッチは気の毒なことに調子を崩し第1幕は声が掠れるところがあった。しかし流石に2幕以降立ち直って極めてドラマティックな歌唱で、その点抜きん出た存在だった。水浸しで歌ったのにはウルマーナが替え玉だったから凄い役者と思った。


すべてが暗く、演技も水浴び場以外は内面的である。合唱などそれこそ歌うだけの感があった。歌唱もゲルマン以外は露骨な感情表現がなくそれを指揮のアジス・ショハキモフが音楽で補っていた。音楽は良かったがオペラとして今一つ盛り上がりがなかったと思う。プレミエでないから演出家はカーテン・コールに出なかったから分からないが全体的に普通のようであった。

夏のミュンヘン・オペラ・フェスティバルで再演される。


2023.3.5 バイエルン国立歌劇場(ARTE-concert)
出演
アンドレイ:アンドレイ・ジリコフスキー、ナターシャ:オルガ・クルチンスカ、ピエール:アルセン・ソゴモリャノフニアン、マリア・アフロシモーヴァ:ヴィオレッタ・ウルマーナ、ナポレオン:トマス・トマソン、クトゥーゾフ将軍:ディミトリー・ウリヤノフ  他多数
バイエルン国立歌劇場合唱団、管弦楽団
指揮:ウラディミール・ユロフスキー
演出:ディミトリー・チェルニャコフ

この世界情勢の中でよく上演に漕ぎ着けたと思う。これはヒットラーの侵攻と戦っているロシア国民を煽るためスターリンがプロコフィエフに改変を命じた作品である。ネオナチとの闘いと称して国論を統制しているプーチンと繋がるではないか。芸術と政治は別とはいってもオペラは直接的にはっきり訴えかける言葉の力がある。指揮者ユロフスキーも演出家チャルニャコフもロシア人。一旦は取り下げを考えたそうである。両方ともロシア侵攻に反対の意を表明してるが、強行したら騒動が起きないとは限らない。

言うまでもなくトルストイの「戦争と平和」を基にした作品である。ソロ歌手だけでも約40人必要で、台詞はロシア語、それに2幕13場と場面が頻繁に変わるから上演が容易でないことは分かる。ミュンヘンでもこれが最初ということで日本ではキーロフ歌劇場の来日公演のみである。実現が難しい時の難しいオペラとなれば観たいと思うのは誰しも同じと思う。プレミエ時ストリーミングが日本では見られなかったので待っていたのが漸く配信された。

チャルニャコフは読み替え演出家だがこの「戦争と平和」に関しては現実から目をそらす訳にはいかず相当苦心したように見える。第1にモスクワ労働組合会館円柱ホールで行われた劇中劇の形にして政治色を希薄化した。ここはゴルバチョフ書記長の告別式が行われたところである。第2に戦闘のリアルさを避けている。ナポレオンはコメディアン風に描いているし、クトゥーゾフ将軍も飲んだくれみたいで決して威厳ある指導者には見えない。兵も軍服でなく私服で戦いも遊戯として演じている。第3に戦争の悲惨さだけを強調した。本来ナターシャの住む館で始まるところだが空爆時の避難所に置き換わっていた。また幕切れも戦争の勝利と歓喜ではなく、クトゥーゾフ将軍の弔問の場となり、そこに愛したナターシャと妻を亡くしたピエールが寂しくうずくまるところで幕となる。一貫して人間の愚かさを揶揄しその犠牲になった人々の悲劇に焦点を当てた演出であった。

プロコフィエフのライフワークとも言える超大作。だがストーリーが叙事的で起伏があまりないので4時間はさすが退屈するところがある。登場人物が多過ぎて多くはさっと通り抜けてしまう。しかしその中でも恋心のある主役3人アンドレイのアンドレイ・ジリコフスキー、ナターシャのオルガ・クルチンスカ、ピエールのアルセン・ソゴモニアン、それにちょっとだらしない司令官2人ナポレオンのトマス・トマソン、クトゥーゾフ将軍のディミトリー・ウリヤノフは強く印象に残った。その他エキストラも加わった大人数の合唱が素晴らしい。2幕早々の戦闘決意で拳を振り上げありったけの声で叫ぶ場面は凄かった。言葉を無視すればむしろ戦争反対の大々的デモのように感じた。レパートリー公演の最中にしかも「サロメ」の新演出と重なったからリハーサル時間も多くはなかったと思う。その中でこの大規模な舞台をまとめ上げたユロフスキーは立派と思う。少ししか映らなかったがいつも腕を大きく振って緩んだところがなかった。

アンドレイのジリコフスキーはロシア人、ナターシャのクルチンスカはウクライナ人である。意図的なキャスティングかは分からないがロシア語圏の歌手が中心になるのは仕方ないと思う。この二人は閉幕後のカーテンコールでウクライナ紋章のTシャツを着て現われた。平和を訴える公演であったのは確かである。それ故ブーイングもなく好評に受け止められたようであった。

今年はプロコフィエフ没後70年に当たる。ロシアの侵略がなければもっと大々的に純粋に芸術的な演出で観られたかもしれない。しかしこれはこれで大きな意味があったと思う。とにかく滅多に見られないものを観られて良かった。

 



2023.6.13 オランダ国立歌劇場(operavision)
出演
ルサルカ:ヨハンニ・フォン・オオストラム
王子:パヴェル・チェルノホ
ヴォドニク:マキシム・クズミン=カラワエフ
ジェジババ:レイハン・ブライス=デイヴィス
外国の王女:アネッテ・ダッシュ  ほか
オランダ国立歌劇場合唱団、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
指揮:ヨアナ・マルヴィッツ
演出:フィリップ・シュテルツル&フィリップ・M・クレン

オランダ芸術祭で上演されたオペラは昨年が「魔弾の射手」、今年は「ルサルカ」とおとぎ話路線が続く。同じ読み替えでも現実にあり得ない架空の話を解釈するのと現実にありうる話を異なった現実にするのとは意味が違う。たとえ大胆な読み替え演出をするにしてもおとぎ話なら不自然を感じない。この「ルサルカ」は観る価値のある名演だった。

この舞台は2人の共同演出だが、フィリップ・シュテルツルが装置から照明まで担当してるので主体は彼の方であろう。シュテルツルはドイツの映画からオペラに活動を拡げた演出家である。新制作の「ルサルカ」はおとぎ話の世界を20世紀ニューヨークの裏通りに移したものである。ルサルカは薬物中毒の売春婦で映画スターに憧れている。魔女ジェジババは表向き美容師だが裏で違法な美容整形を営むボス的存在である。ヴォドニクは売春婦を束ねるヒモでジェジババともつながっているようである。一方王子と外国の王女はルサルカが憧れるハリウッドの俳優である。

ルサルカはもともと質素な娘で人目を引く派手な格好もせずスカートにカーデガンで眼鏡をかけている。当然思うように稼げない。ジェジババによって見違える姿になり映画界に入って憧れの王子に会う。彼も惚れ込んで夢が叶ったかのように見えた。しかしそこでも彼女はものが言えないつまり映画の世界でも仕事が出来ないのである。彼女とは比べようもなくきれいで目立つセクシーな女優がいて、時が経って彼は仕事にもセックスにも不満を抱くようになる。傷心した彼女は王女と殺傷事件を起こしニューヨークに帰ってくる。王子が追いかけてきて彼女の心を知るが元に戻ることは出来ず、彼をハリウッドに帰し自分は薬を打って自殺する。原作は一緒に死ぬようになっているがそこは結末を変えているようである。もっとも「夢」の世界に入るのは彼女にとって同じかもしれない。

演出も面白かったが演奏は輪をかけて素晴らしい。南アフリカ出身のオオストラムは昨年アガーテを演じていたが今回のルサルカの方が女優ぶりが発揮されて何倍も見栄えがした。普通の女から映画スターへの変わり振りも見事だったし何より歌唱力がある。どの音域も声質が変わらずきれいでよく通る。スタイルの良い美人で今回のルサルカで貴婦人から汚れ役までこなせる自信がついたと思う。東京にも来ているが今一番見頃聴き頃だと思う。ジェジババのブライス=デイヴィスには驚いた。アメリカ出身でロールデビューとのことだが、普通太く暗い声の多い黒人歌手にしては声がきれいで声域も広く説得力ある力強さを持っている。役柄は制限があるとは思うが、例えば「仮面舞踏会」ウルリカとか「トロヴァトーレ」アズチューナなど良いように思う。アネッテ・ダッシュはあまり悪役に合わないと思うがここでは声の強さと大胆な演技で下品なところも見せていた。まだ脇を固める年代でもないが同じドイツ人女性としてマルヴィッツを応援したのか。

男声ではヴォドニクを演じたクズミン=カラワエフがロシアのバスにしては重量感がないし、裏社会のヒモにしても優しい感じがした。ルサルカの父親だから当たり前と言えばそうかもしれないが、彼はこの役作りに迷いがあったのではないかと思う。王子のチェルノホはチェコ人でドヴォルザークはお国もの、その上映画スターそのものと言った感じの長身美男子である。声は甘く歌唱はしっかりして演技も上手いからこの演出には最高にピッタリ嵌っていたと思う。

指揮のヨアナ・マルヴィッツは演出家とよく話し合ったと見える。メルヘンチックなところはどこにもなく劇的な迫力ある人間ドラマを展開した。読み替えで音楽と演出がこれほどマッチした演奏は珍しいくらいである。それを可能にしたコンセルへボウも凄いと思う。座付きオケでないのに舞台との齟齬がなくしかも明解でシャープな演奏が凄かった。マルヴィッツは音楽も素晴らしいが長身で艶やかな容姿の指揮振りも女性指揮者の人気No.1に寄与してると思う。

読み替え演出として成功した最高のオペラで、演出、ソリスト、合唱オーケストラがそれぞれ個々で素晴らしいものが高度に融合した公演であった。カーテンコールで最も拍手喝采が大きかったのはオオストラム、ブライス=デイヴィスとマルヴィッツであった。

 


2023.6.12 ウィーン国立歌劇場(WSO-Live)
出演
ボリス・イズマイロフ:ギュンター・グロイスベック
ジノーヴィ・イズマイロフ:アンドレイ・ポポフ
カテリーナ・イズマイロフ:エレーナ・ミハイレンコ
セルゲイ:ドミトリー・ゴロフニン  ほか
ウィーン国立歌劇場合唱団、管弦楽団
指揮:アレクサンダー・ソディー
演出:マティアス・ハルトマン

ショスタコーヴィッチのオペラの中では最も有名で上演回数も多い。このウィーン演出は2009年プレミエでDVDも出ているが、キャストは勿論違う。裕福な商人と結婚した女が欲求不満で殺人まで犯す転落物語だから間違えばポルノ作品になってしまう。現にソ連の初演では好評だったのにスターリン批判を受け上演禁止になっている。

しかしこのハルトマンの演出は刺激的な部分は控え目で、衣類を着け、レープ・シーンも遊戯的、セックスもカーテンにぼやけたシルエットを映すなど比較的理性的に観ることが出来る。舞台は場面によってベッドが1台あるだけのモノクロームでシンプルなもの。演技力と音楽が全てである。

出演者が多く端役でもそれなりに見せ場がある。ロシア語なのでロシア人が多いが一時の排除ムードは収まったらしい。表記の主役どころはロール・デビューか劇場デビューで意気込みが感じられた。やはり出ずっぱりで難役をこなしたエレーナ・ミハイレンコが素晴らしい。低目の声だが暗くならず高温も柔らかみがあってきれいである。金髪やや豊満な体形だが演技がそれ程エロティックにならず内面の心情を表現したのが良かったと思う。恋人セルゲイのドミトリー・ゴロフニンも良い。声は強いし精悍なイケメンでカテリーナが惹かれるのも分かる。彼女が不満を抱く夫ジノーヴィのアンドレイ・ポポフがちょっと弱い感じがっするからその好対照が目についた。ボリス・イズマイロフを演じたギュンター・グロイスベックは初役。この役は陰湿ないやらしさがあるが、彼はむしろ陽気に演じていたように見えた。その他一場面に出るだけだが、警察署長とか囚人の老人や若い女など存在感のあるところを見せていた。

歌手も良かったがそれ以上に素晴らしかったのはオーケストラ。指揮のアレクサンダー・ソディーはイギリス出身でマンハイムの音楽監督。欧米のメジャー歌劇場にも出演している若手である。オペラが主体だがオーケストラにも積極的で昨年春祭には都響のマーラーを指揮していた。派手な曲が得意のようでこの「ムツェンスク郡のマクベス夫人」では舞台の付属の域を越え、オーケストラが実に伸び伸びと迫力のある音を出していた。管、打楽器が特に鮮明で素晴らしかったが、それでも歌手を消すことがなかったのはさすがオペラ指揮者と思う。

以前NHK-BSでこの作品の改訂版「カテリーナ・イズマイロフ」(ボリショイ劇場)が放送された。台詞と音楽の一部が変わっているらしいが素人には分からない。ただその中の間奏曲5曲を組曲とした作品(交響組曲「カテリーナ・イズマイロフ」)がある。このオペラのストーリーは小説向きでオペラとしてはあまり観たいとは思わない。音楽を聴くだけならこの組曲が手っ取り早くて面白いではないか。


2021.6.10 プロヴァンス大劇場(ARTE-concert)
出演
テレサ(ウェイトレス):マグダレーナ・コジェナー
パトリシア(花嫁の義母):サンドリーヌ・ピオー
ヘンリック(花嫁の義父):トマス・プルシオ
ステラ(花嫁):リリアン・ファラハニ
トォオマス(花婿):マルクス・ニッカネン
神父:ユッカ・ラジライネン  ほか
エストニア・フィルハーモニー室内合唱団、ロンドン交響楽団
指揮:スザンナ・マルッキ
演出:サイモン・ストーン

カイヤ・サーリアホが亡くなった。フィンランドの女性作曲家で日本とも関係が深く、サントリー芸術財団の委嘱作や東京文化会館で上演された能から題材をとったオペラ「余韻」などがある。現代音楽には疎いので名前だけは知っていても作品は聴いたことがない。ARTEに出ているのが目に留まり観てみたが、困ったことに字幕がフランス語とドイツ語しかない。どうにかあらすじだけはサイトで把握することが出来た。

オペラ「イノセンス」は2018年完成したがコロナ禍で3年上演が延期されこのエクサンプロヴァンス音楽祭が世界初演であった。英国ロイヤル、フィンランド国立、オランダ国立、サンフランシスコと5か国にまたがるオペラ劇場の共同制作である。

物語はアメリカの学校で起きた銃撃事件を彷彿とさせる。フィンランドのインターナショナル・スクールでひとりの少年が生徒10人と教師1人を射殺する。それから10年が経った。少年の弟がルーマニアの女性と結婚することになりホテルで披露宴が行われようとしている。偶々そこに給仕として働いていたのが殺された少女の母親だったのである。彼女はそこではじめて花婿が犯人の弟であり、兄も出所して新しい生活を始めたと知る。彼女は自制を失って父母に突っかかる。花婿の家族は事件のことを秘密にしていたし兄もその場に出ていなかったのだが、こうなっては事実を明かさなければならなくなる。それを知った花嫁は結婚するのは本人が好きだからと秘密を許すのだが、花婿の方は少年の頃兄が銃で遊んでいたことを咎めもせず誰にも話さなかったことに自責の念と同罪を感じその場をひとりで去って行く。

このオペラのテーマは男女の恋愛ではなく犯罪被害者の精神状態を描いたものである。だから主役は新郎新婦ではなく給仕や犯人家族の広い意味での犯罪犠牲者で、法的には全てがイノセンス(無罪)の人たちである。犯人が新しい生活を始めているのに被害者の心傷は計り知れなく大きくそこから抜け出せずにいる。ベルク「ウォツェック」やブリテン「ピーター・グライムズ」と同じく社会問題を鋭く描いたオペラである。

舞台は現在の話と過去の追想が入り混じって進行する。ホテルと学校が背中合わせになってそれぞれがパーティ・ホールと厨房とか学校もいくつかの部屋に分かれ回転して場面が変わる。出演者は表記のオペラ歌手以外に追想として当時の学校の生徒たちが多く登場する。彼らはミュージカルの歌手とか俳優で皆マイクをつけているが、会話が多くそれも9か国語が飛び交うので意味が分からない。随分と演劇的要素の強いオペラと思う。

現代オペラの歌唱は何を聴いても印象に残らない。話してるような音楽である。音楽の3要素とはリズム、メロディー、ハーモニーだが現代オペラはリズムもメロディーも素人が口遊むようなものはない。音楽でなく音の3要素(大きさ、高さ、音色)で創作しているように思う。それでもその場の雰囲気や感情は表現できると思うが、それは歌ではなく声色と言葉と演技だと思う。イタリア・オペラでよくある棒立ちで歌ってはオペラにならない。残念ながら言葉が分からないから十分には理解してないが、皆演技達者なので雰囲気は掴めたと思う。

 

キャストには素晴らしい人が揃い、3年も待ってのことなので世界初演の意気込みが一層感じられた。映画を観てるような熱演であった。その中でもウェイトレス役マグダレーナ・コジェナーはくぐもった力強い声と顔の表情、演技で真に迫った怒りと心情を表していた。一方サンドリーヌ・ピオーは清らかな声で品の良い優しい母親を演じていた。それに追想の方だが殺された少女役がボーイソプラノの声で可愛く、そんな子がどうしてと思わずにはおれない。女声3人が際立って対照的だったのが良かったと思う。男声では父親役のトマス・プルシオが温厚な役作りをしていた。こうなると犯人の父母の方が一層哀れみを誘った。

サーリアホの音楽は深刻な物語なのにキラキラした透明な響きがあり、ロンドン響がそれを極めて鮮やかに演奏した。一番良かったのはオケかもしれない。スザンナ・マルッキが現代ものを得意とし、サーリアホとも親交が深かったそうでそれも寄与したと思う。

スザンナ・マルッキ、オクサーナ・リーニフ、ヨアンナ・マルヴィッツと世界の檜舞台に上がる女性指揮者が多くなってきた。折しも「TAR」が上映されているが(まだ観てない)、そういうことが想像できる時代になってきたということであろう。このオペラは再度きちんと言葉を理解して観たいと思う。

追) カイヤ・サーリアホはこの時のカーテンコールに車椅子で出ていた。まだ70歳だったそうでご冥福を祈ります。


2022.10.15 ウィーン国立歌劇場(VSO-live)
出演
イエヌーファ:アスミック・グリゴリアン
ラツァ:デイヴィット・バット・フィリップ
シュテヴァ:マイケル・ローレンツ
コステルニチカ:エリスカ・ワイソヴァ
祖母:マルガリータ・ネクラソワ  ほか
ウィーン国立歌劇場合唱団、管弦楽団
指揮:トマーシュ・ハヌス
演出:デヴィット・パウントニー

ウィーン国立歌劇場今月のライブ配信はどれも期待して観たいと思うものがない。「イエヌーファ」はストーリーが好きでないがグリゴリアンが題名役とあって観る気になった。歌手陣は全て素晴らしく真実味のある舞台であったが話が悪く楽しめなかった。

イエヌーファが子供まで宿した好きなシュテヴァに捨てられ異父兄のラツァと再出発する話である。その出来事が放蕩者との恋と三角関係、傷害事件、子殺しと今日ありそうなことなので親近感がある。演出も極めてリアリスティック、出演者も一同自然に振舞っているので、実際あったような錯覚に陥る。

だがちょっと考えると随分可笑しなストーリーである。若い3人の主人公の境遇が普通でなく実の父母は皆死に祖母か継母と生活し同じ工場で働いている。細かい説明は省くが要するに両親のいない従兄妹通しの三角関係という設定である。だからどうなんだという話はどこにもない。継母が血のつながりのない娘のためにその子を殺すというのも変だと思うし、そうならいっそのこと血縁などなくてもよいではないかと思う。

表面的には生々しい人間ドラマだがオペラとして好きになれない理由がある。放蕩者はオペラの常道だがどこか憎めないところがあるものである。しかしシュテヴァは誠意の欠片もない人間で許せない。惚れたイエヌーファの方も女心かもしれないが、彼女の境遇からはジルダのように可哀そうに思う気になれない。(「リゴレット」も好きでないが) しっかりせいと言いたくなる。イエヌーファとラツァの新しい門出を祈りたいと思う前にそれ以前の出来事の方に気が行ってしまう。

歌手の中で最高に栄えていたのは継母コステルニチカのエリスカ・ワイソヴァ。ウルマーナの代役だったそうで感情の入ったパワフルな歌唱と演技で際立った存在感があった。イエヌーファのグリゴリアンは叙情的な歌唱力に加えて日常のリアルさが自然で舞台によく溶け込んでいた。ラツァのバット・フィリップも一途な思いを真面目そうに演じて良かった。シュテヴァのマイケル・ローレンツはラツァとの対比でもっと踏み外してもよい様にも見えたが、過剰でないところがむしろ良かったかもしれない。トマーシュ・ハヌスは新国「イエヌーファ」の指揮者でもあった。その場によく合ったヤナーチェックの雄弁な音をだし、歌手の意声とのバランスが特に良かった。

考えると変に思うが舞台の進行に任せて観ていると映画のようなドラマだった。尚ザルツブルクのサロメで名を売ったグリゴリアンは来月来日してノットの東響でサロメを歌うことになっている。コロナ禍から漸く抜け出せたようだ。

 

 


2022.6.27 バイエルン国立歌劇場(BSO-tv YouTube)
出演
グランディエジョーダン・シャナハン(歌)/ロベルト・デルレ(台詞&演技)
ジャンヌ:アウシュリネ・ストゥンディーテ
バッレ神父マーティン・ヴィンクラー
ローバルデモン男爵ヴォルフガンク・アップリンガー=スペールハッケ  ほか
バイエルン州立歌劇場合唱団、管弦楽団
指揮ウラディーミル・ユロフスキ
演出サイモン・ストーン

今年のミュンヘン・オペラ・フェスティバルは新制作「ルーダンの悪魔」で幕を開けた。オルダス・ハクスレーの同名小説をハンブルグ国立歌劇場の依頼を受けペンデレツキ―がオペラ化したものである。ルーダンはフランスの小さな町で、17世紀そこで起きた歴史的実話をもとに作られている。有名な事件で映画にもなっている。

単純に分かり易く言えば、尼僧院長ジャンヌが性的妄想にかられ有能で色男の司祭グランディエに恋をする。それが叶わぬとなって恋が憎しみに変わり悪魔の噂を広めて懲らしめ、やがてグランディエを嫌う人々によって死刑に追いやられるという話である。表面は刺激的で残酷なシーン(18禁)が続くが、その奥に潜む問題を考えるとなかなか複雑で難しくなる。深入りはしないが何かに囚われ異常な行動を起こすことも、それを逆手に利用する人がいることも、風評の拡散はSNSの時代極めて容易いから、今日的問題を提起した公演になったと思う。

このオペラは映画を実演で観てるようであった。ペンデレツキーの音楽が前衛的でメロディーがなく歌手は話をしてるようでしかも歌より台詞を話すことの方が多い。だからオーケストラが独立に演奏してるように聴こえる。「ルル」もそう思うがオーケストラだけ聴いて歌唱の方はその音楽価値が分からず台詞の意味だけ理解すればいいではないかと思ってしまう。要は私の能力では音楽を背景にした演劇にしか見えない。その限りにおいてこの公演はリアリスティックで迫力がありいろいろ考えさせられた熱演であった。

映画的とは役者が大変ということである。特にタイトルロールのグランディエはセックスから拷問のシーンまであるから並の人では出来ない。実は今回グランディエを演ずることになっていたのはヴォルフガング・コッホであった。ところが直前にコロナ陽性となり、急遽代役が歌唱と演技を分けて受け持つことになった。彼だったらどうなったか観たい気もするがそれにしてもここまで漕ぎ着けたのは立派と思う。特に舞台上のロベルト・デルレは台詞もある大役で、彼がバイエルンで歌った経験がある俳優だから出来たと思う。ジャンヌも性格俳優的役柄で難しい。アウシュリネ・ストゥンディーテは「エレクトラ」、「ムツェンスクノマクベス夫人」、「炎の天使」など普通でない役ばかりこなす適役である。妄想は他の人が演ずるが悪魔祓いの残酷シーンもあり、やはり演技力がものを言う。珍しいことにこの二人主役でありながら舞台上で顔を合わすことはほとんどない。処刑される時に初めてキッスが叶うからサロメみたいである。他にも登場人物が多くストーリー上重要な役割だが活躍する姿はあまり目立たない。

舞台は修道院だから白黒のモノトーン、中央のキューブ状セットが回転して頻繁に場面転換する。その点でも映画のカットのようであった。

ペンデレツキーの音楽は不可解である。名だたる歌手が出ているのに耳を通り抜けて音楽を聴いた実感が残らない。オペラというより演劇として観たとしか言いようがない。ペンデレツキーの作品は少なくとももっと沢山聴き込んでからでないとオペラとしての良さが私には分からないと思った。


2022.4.5 マドリード・レアル劇場(ARTE-Concert YouTube)
出演
レナータ:オースリン・スタンダイト
ルプレヒト:リー・メルローズ
アグリッパ&メフィストフェレス:ドミトリー・ゴロヴニン
修道院長:アニエスカ・レーリス  ほか
レアル劇場合唱団、管弦楽団
指揮:グスタボ・ヒメノ
演出:カリクスト・ビエイト

これはチューリヒ歌劇場との共同制作。ただしチューリヒでのプレミアは2017年だからもう5年も前のことである。レアルが借用したのか上演できない理由があったのか知らないが、気易くは出来ないオペラであることは間違いない。

10代に出会い間もなく姿を消した青年を探し続けるレナータ、彼女に魅せられどこまでも求め続けるルプレヒト、二人の異常な性的欲求精神異常を扱ったものである。その青年は舞台に登場せず実際に会った人物かレナータの幻想かは分からないが、それがレナータがマディエリと呼ぶ炎の天使なのである。テーマがショスタコーヴィッチ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」に似たところがある。どちらも楽しいオペラではない。笑いのない哲学やら社会問題となると程度の差はあれ音楽の時間が奪われる。これは作品そのものの問題で解釈ではないが、それは演出によっても大きく左右される。

舞台はいくつかの部屋が連なった3層の回転コンパートメント。その中にレナータ子供時代の部屋、産婦人科診療室、いかがわしい酒場などがあって、場面毎に照明で浮かび上がる。最も重要な小道具は炎の天使の象徴として使われる自転車である。始めから終わりまでずっと舞台にある。

演出家ビエイトは主役のふたりだけでなく周りの人物にも注目しているようだ。レナータにとりつくマディエリの霊を取り除くため魔術師、医師、修道院を訪れるが、彼らは皆ふたりとは正反対の私利私欲の人間で厭らしい行為や虐待をするばかりである。ビエイトは弱者を翻弄する地位ある人間を前面に出し非難してると思う。その他にもうひとつ解釈として臭わせていることがある。舞台はレナータが何かに取りつかれた表情で回転する車輪を見詰めるシーンで始まり、その自転車が燃えるシーンで終わる。宗教裁判によって火刑されるのはレナータでなく炎の天使マディエルでレナータとルプレヒトはそれぞれ離れたところでそれを眺めている。レナータはそこで救われ、結局ふたりは結ばれることになるのではと想像させた。

歌手ではレナータのオースリン・スタンダイトが凄いとしか言いようのない狂気を演じた。歌唱も演技も出ずっぱりでこれほど過酷な役は他にR.シュトラウスしかないと思う。彼女はリトアニア出身でムツェンスクのマクベス夫人、サロメ、エレクトラも演じているから、この役をこなせる数少ないソプラノと思う。ルプレヒトのリー・メルローズも負けず劣らず凄いと思う。彼はイギリス人でやはりアルべリヒなど個性の強い役を特異としてるようである。両方とも日本人ではなかなか上演できない役と思う。

リズムと繰り返しの多い音楽は迫力があって素晴らしかった。だがオペラは楽しくなくともオーケストラだけの音楽(もしあれば)を聴くと却って音楽の良さが引き立つこともある。。この作品は作曲者自身によって聴き易い交響曲3番となっている。

「炎の天使」は以前バリー・コスキー演出をBSO-TVで観たが、ビエイトの演出はセックス場面も節度があったし解釈もより政治色があったと思う。だが音楽はバイエルンの方が迫力があったような気がする。いずれにしても日本人には向かないオペラであり、個人的には交響曲の方が好きである。因みに日本での舞台上演は海外の来日公演のみで、日本人によるものは大野和士の演奏会形式があるだけである。



2022.3.6 バイエルン国立歌劇場(staatsyoper.tv)
出演
ピーター・グライムズ:スチュアート・スケルトン
エレン・オルフォード:レイチェル・ウィリス=ソレンセン
ボルストロード:イエン・パターソン
女将:クラウディア・マーンケ
セドリー夫人:ジェニファー・ジョンストン  ほか
バイエルン国立歌劇場合唱団、管弦楽団
指揮:エドワード・ガーディナー
演出:ステファン・ヘアハイム

バイエルン国立歌劇場の新制作。スタッフにコロナ陽性者が出たとかで1週間遅れてのプレミエとなった。はじめにウクライナの自由と民主主義のためにベートーヴェン「歓喜の歌」が演奏され、聴衆は全員起立した。

「ピーター・グライムズ」はブリテンの出世作代表作である。少年の事故死を虐待殺人と追い詰める話だが、大衆の感情が世の中を動かす今日の社会現象と合致し興味深いオペラである。だがヘアハイムの演出は内容以前に謎解きを強いられる。以前NHK-BSで観たバイロイトの「パルジファル」は次々と難題が出てきて合理的にどう解釈するか大いに参ってしまった。この「ピーター・グライムズ」はそれ程でもないが理解に苦しむところは多かった。


舞台は劇場のステージ、それが集会所、酒場、教会、小屋など様々な場面で共通に使われる。漁村の劇中劇として人間心理を表現したものと思われる。それは良いとして細かいことかもしれないが、村人が酒場で乱舞する場面で水族館の魚が回遊する映像が映ったり、教会では十字架でなく海上の太陽を拝んでいる。いろいろ思い巡らせてみるが、回遊する魚の群れは大衆の群衆心理行動を揶揄したのかもしれない。太陽の方は自然崇拝かと思ったが十字架をつけた牧師がいるからそうではなさそう。太陽の光が放射状に輝いて十字架に見えなくもないし、続いて現れる皆既日食は金環が光輪かもと思った。これでは謎解きの遊びのようで無理がある。結局は分からないということ。一方で良いところもあったと思う。エレンが海に身投げしようとするフィナーレ。暗い社会劇を日本的奥床しさのある愛のオペラとして締めくくったのは心惹かれた。

歌手では題名役スチュアート・スケルトンが歌唱、演技とも実に素晴らしかった。朴訥な漁師の感じがよく出ていた。エレン役のレイチェル・ウィリス=ソレンセンは初役とのこと。感情を抑えた端正な歌唱と自然体の演技で教師らしい品位があって好感を持った。それにオーケストラが素晴らしい。このオペラは間奏曲をまとめて独立に演奏される。ブリテンは来日した時に能「隅田川」を観て「カーリュー・リヴァー」を作曲した。「ピーター・グライムズ」はそれ以前の作品だから直接関係ないが、日本的な幽玄の響きがある。「ねじの回転」とか「ベニスに死す」など「隅田川」に似て特異な環境での心象を描いたものだからもともと日本人と似た性向があったと思われる。イギリス出身のエドワード・ガーディナーがブリテンを得意とする指揮者だったことも好演になった理由と思う。

音楽優位の公演であったと思う。じっくり味わうタイプのオペラだからカーテンコールは比較的おとなしかった。プレミエでは演出家がステージに上がるのが通例だがコロナの影響かそれはなかった。聴衆の反応が見えなかったのはちょっと残念。

 

 

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