くらはしのクラシック日記

~倶楽趣博人(くらはしひろと)の随想クラシックの思い出、Cafe Klassiker Hrを受け継いだブログです~

カテゴリ: コンサート


2020.10.11(日)15:00 豊田市コンサートホール
曲目
J.S.バッハ/鈴木優人編:管弦楽組曲第1番ハ長調 BWV1066
W.F.バッハ:2台のチェンバロのための協奏曲ヘ長調 F.10
J.S.バッハ:前奏曲とフーガイ短調 BEV543(オルガン鈴木雅明)
      トッカータとフーガニ短調 BWV565(オルガン鈴木優人)
      2台のチェンバロのための協奏曲第2番ハ長調 BWV1061a
(アンコール)
クープラン:クラブサン曲集第2巻第9より 2台のチェンバロのためのアルマンド
C.P.E.バッハ:デュエット第2曲ヘ長調 Wq.115-2
J.S.バッハ:カンタータ第147番「主よ人の望みの喜びを」

2月以来8か月ぶりのコンサート。当初プログラムを変更しての開催である。本来ヴィオラのアントワン・タメスティとチェンバロの鈴木優人によるデュオ・リサイタルの予定であったが来日できず、父鈴木雅明とのチェンバロ・リサイタルになった。バッハ・プロに変わりなければ問題ない。更に直前ソロ曲目をオルガンで弾くことに変更になったがこれはむしろ歓迎したい。多分世界的に評価の高いブランボーのオルガンがあったからと思う。

コロナ禍の収容数は半分の500名。普通ならチェンバロには少し大き過ぎるホールでも多少響きが良くなったかそれ程音が遠いとは感じなかった。チェンバロ曲では最後に演奏された協奏曲2番が一番良かったと思う。単にバッハと言えばJ.S.バッハのことだが、父親があまりにも偉大だったので息子の方は影が薄い。前半の協奏曲ヘ長調は次男の作だが、初めてであまり印象に残らなかった。それに反し後半の父バッハは同じく初めて聴いても生き生きした生命感があって素晴らしかった。管かと思うような音が出て驚いた。管弦楽組曲は若い頃よく聴いた曲なのにチェンバロ編曲ではそのイメージがあまり湧いてこなかった。管弦楽のピアノ版は多くあるが、やはり楽器の表現能力の差かと思う。

同じ道を歩む鈴木の父と息子だが、チェンバロでは2台の曲ばかりなのでその違いが判らなかった。しかしオルガンの演奏で随分違うと思った。父の方はオーソドックスで学究的、息子の方は現代的解釈を加えた明解な演奏であった。

オルガンとチェンバロを同時に聴いたのは初めて。チェンバロからオルガンに変わった時点ではやはりチェンバロの音が如何にも貧弱に思えた。しかし後半オルガンからチェンバロに変わった時にはそれを全く感じなかった。それだけチェンバロ曲が良かった所為だが、考えてみればオケでもフォルテシモとピアニシモが共存するのでそれは音楽次第ということであろう。

リサイタルは演奏者にとってコロナの影響がほとんどないと思われるが、オペラやオケコンは通常の演奏に戻るにはまだ暫く時間がかかりそうである。ベートーヴェン生誕250年記念の年だからピアノ・ソナタなどもっと機会があってもいいのにと思う。


 

2020.1.18(土)16:00 愛知県芸術劇場コンサートホール

出演

パブロ・フェランデス(チェロ) 名古屋フィルハーモニー交響楽団

指揮:沼尻竜典(指揮)

曲目

シューマン:チェロ協奏曲イ短調 作品129

(チェロ・アンコール カザルス編 カタロニア民謡「鳥の歌」)

ワーグナー:楽劇『ニーベルングの指環』より[沼尻版]

・序夜『ラインの黄金』より~序奏、「ヴァルハラ城への神々の入城」

・第1日『ワルキューレ』より~「ワルキューレの騎行」、「魔の炎の音楽」

・第2日『ジークフリート』より~「ジークフリートの角笛」、「森のささやき」

                「ブリュンヒルデの目覚め」

・第3日『神々のたそがれ』より~「ジークフリートの葬送行進曲」    

                 終幕(ブリュンヒルデの自己犠牲)

 

名フィルの定期演奏会にはプログラム構成の狙いを表すタイトルがついている。今回は畢生の傑作とある。畢生とは生涯をかけたという意味である。「ニーべルングの指環」は誰しも異存がないと思うが、シューマンのチェロ協奏曲はそうかなぁと私には思える。

 

シューマンはドイツ音楽の中で苦手の方になるが、誕生日が同じと言う可笑しな理由で理解しようと努めてきた。抵抗がなくなったのは歳をとってからである。チェロ協奏曲で有名なのはドヴォルザークとハイドンで、それに比べシューマンは演奏される機会が少ないと思う。ピアノ、ヴァイオリンのような派手さがない楽器なので、要するにチェロのソロが浮かび上がらないように思う。尤もこれはシューマンの音楽全体がそういう感じではあるが。

 

独奏のパブロ・フェランデスは20代の若手チェリストで、日本音楽財団から貸与されたストラディヴァリウスを使用している。柔らかいきれいな音で抒情性豊かな表現をする。協奏曲ではオケに溶け込み過ぎの感があるが、アンコールの「鳥の歌」ではこれ以上ない弱音の美しさ、切ない気持ちの溢れ出た感動的演奏であった。この人は室内楽の方で良さが一層引き立つと思う。

 

さてお目当ての「ニーベルングの指環」。これは切れ切れの抜粋ではなく沼尻自身の編曲によるもの。ロリン・マゼールの編曲が有名だが、それよりかなり短い(2/3くらい)。但し両者には違いがあり、沼尻版は原作のオケ部分をつなぎ合わせたもの、マゼール版は歌も含めたオケ用編曲である。原4部作を観ているものにとっては、どうしても舞台場面を想いながら聴いてしまう。15時間を1時間に短縮すればほとんどの場面を省略しなければならないのは分かっている。でもやはり物足りなさを感ずる。全体物語にならないのは仕方ないとしても場面的にそうではないと思ってしまうことがある。休みなしで一つの作品として音楽の流れを作っていく訳だからそういう結果になるのではと思う。

 

しかしオケ演奏としては素晴らしかった。特に「ジークフリート」では名フィルの管の素晴らしさが十分発揮されていたし、「神々のたそがれ」では精魂傾けた全力演奏で原作全曲を聴いた後のような感動を覚えた。

 

5月には飯森泰次郎と関西フィルの「ニーベルングの指環」ハイライトが、また9月には三澤洋史と愛知祝祭の二日間に亘るハイライト公演がある。どちらも歌手が加わった演奏会形式による完全な抜粋である。ワグネリアンにとってオケ演奏以上にたまらなく待ち遠しい。

 

 

 

2019.12.15(日)15:00 あげつまクリニック Novalium

出演

福本泰之(V)、真弓(P)、真琴(C)、揚妻広隆(バリトン)

曲目

シューベルト:流れの上で(揚妻広隆、P&C)

ドヴォルザーク:ピアノ三重奏曲第4番「ドゥムキー」

ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲第7番「大公」

 

トリオ・エフは愛知県立芸術大学の福本泰之教授とその娘さんふたりによるピアノ三重奏団。親子で余暇に楽しむなんてものじゃない列記としたプロで、娘さんたちはいくつかの賞を獲得し主に室内楽で活動している若手演奏家である。エフ(F)とはFukumotoでもありFamilyでもあるとのこと。娘たちに楽器を習わせるとき意図があったわけではなく、偶々こういう結果になったとの話があった。全く羨ましい限りと思う。

 

昨年ミュンヘンARDコンクールで葵トリオが日本人初の優勝を果たし話題になった。でも常設トリオはカルテットに比べてずっと少なく、コンサートは臨時に編成して演奏する場合が多い。ソリストとして活躍している各人が集まって火花を散らすのもよいが、本来はこじんまりしたところで静かに味わうものであろう。そう考えたら親子トリオは理想的だと思う。

 

今日の演奏も正にそういうものであった。誰も出しゃばらないし、誰も人任せにしない。互いに呼吸を合わせ音楽の持つ美しさを素直に表現した素晴らしい演奏であった。特に緩徐楽章が味わい深かった。私にとってほんと何十年振りのトリオ演奏会で、レコードを聴いていた若い頃を懐かしく思い出した。

 

この後12月22日同じプログラムで名古屋デビュー・コンサートがある。

 

クリニック院長揚妻広隆先生は開業前主に宗教曲のソリストとして多数出演されていたが、今はシューベルトを中心としたドイツ・リートのリサイタルを自前の音楽ホールや東京ほかで開いている。品位のある温かい声で心情を表現するのに長けている。

 

これで今年のコンサート通いは終了。しばらくはネットやテレビになる。

 

 

 

 


2019.
11.29(金)18:45 愛知県芸術劇場コンサートホール

出演

チェロ:クラウス・カンギーサー、ヴィオラ:マティアス・ブッフホルツ

愛知県立芸術大学管弦楽団

指揮:高関 健

曲目

坂田直樹:《組み合わされた風景》

リヒャルト・シュトラウス:交響詩《ドン・ファン》作品20

             交響詩《ドン・キホーテ》作品35

 

愛知県出身の現代作曲家は意外に多いと思う。冨田 勲、新見徳英も高校は愛知県。最近急に注目されるようになった坂田直樹も愛知県立芸術大学出身、パリ在住まだ38歳である。国内外から委嘱を受け、2020年から3年間名古屋フィルのレジデント・コンポーザーに就任することも決っている。

 

この作品は面白かった。作曲家自ら解説を載せているが、その意図通りに私が理解できたとは全く思わない。しかし見てるだけで楽しかったが、見たこともない打楽器が次々と出てきて、4人の奏者が皆忙しく動き回っていた。それでも音楽の方は派手で大きな音を出すというよりむしろ逆で緊張の頂点を表しているかのようであった。何かに例えれば、笑いのない息を抜く暇もないスパイ映画の緊迫した場面を見てるように感じた。

 

リヒャルト・シュトラウスの2つの交響詩には感心した。将来プロにという意志のある人ばかりだから下手なわけはないが、それにしても管楽器の鮮明な音は見事というほかないし、弦のアンサンブルも良く、全体として色彩豊かな情景描写音楽を上手く演奏していた。

 

指揮者とソリストは本職は他にあるがいずれも県芸大の先生。その意味において、演奏家として自己を打ち出すというより全体の調和を重んじた演奏だったと思う。私個人の主観的感想を述べれば、共感の程度は演奏順に最初の方が大きかった。リヒャルト・シュトラウスは好きでよく聴いたものだが、《ドン・キホーテ》は《ドン・ファン》より長いし、それだけに集中してずっと聴かせられるよう変化をつけるのは難しいと思う。上手にきれいに弾てはいるが破天荒な迫力にはちょっと足りなかったように感じた。

 

リヒャルト・シュトラウス記念の年でもないのに、来年1月にはまたシュトラウス特集でN響名古屋定期がある。シュトラウス違いだが「こうもり」もいくつも続く日程になっている。ワーグナーの「ニーベルングの指環」もそうだが、どうしてこういうことになるのであろうか。好きな人にとっては有り難い話ではあるのだが。

 

2019.11.24(日)16:00 愛知県芸術劇場コンサートホール

出演

ケイト・ロイヤル(ソプラノ)、アリョーナ・アブラモヴァ(メゾ・ソプラノ)

オリヴァー・ジョンストン(テノール)、ミラン・シリアノフ(バリトン)

スウェーデン放送合唱団、京都市交響楽団

指揮:広上淳一

曲目

フォーレ:レクイエム ニ短調 op.48(ネクトゥー&ドゥラージュ校訂)

モーツァルト:レクイエム ニ短調 K.626(ジェスマイヤー版)

 

ふたつのレクイエムを同時に聴くのはもちろん初めてである。過去にそういうプログラムがあったかどうか知らないが、スウェーデン放送合唱団だから一度くらいなら良いであろうと思う。

 

モーツァルト、ヴェルディ、フォーレの3大レクイエムの中年代から始めと終わりの2曲の演奏会。3曲とも優劣つけがたくどれも感銘を受けるが、死者を弔う音楽と考えると浄土教の我が家にとってはフォーレの方が相応しいように思う。第一、「怒りの日」に最後の審判を受けることもないし、天国に行けるよう神に向かって祈るだけでなく、死者に向かって祈る場があり親近感がもてる。つまりフォーレには通常含まれる「怒りの日」がないし、曲の終わりに出棺に際して死者に向けた言葉が付け加わっている。

 

今回のフォーレのレクイエムは通常の第3稿によるのではなく、それ以前のヴァイオリンがオケにない版であった。音楽的に地味になるが祈りの雰囲気がよく出るようになるし、モーツァルトと抱き合わせでは変化の際立つ方が良いと思う。

 

最も素晴らしかったのは勿論スウェーデン放送合唱団。清澄な声の美しさは比類がないし、それと同時にオケを凌駕するような迫力もある。弱音が特にきれいだから、テンポを遅くした静かなフォーレで一層その良さが生きたと思う。4人のソロ歌手は皆声がよく通り素晴らしかったが、中でもケイト・ロイヤルが良いと思った。ただ特に女声の方だがパンチが強いので宗教曲よりオペラに向いている感じがした。

 

広上淳一の指揮ぶりは失礼ながらここまでやるかと笑えてしまうこともあるがオケのコントロールは実に上手い。京響とは10年以上の付き合いだから相性が良いのだろう。

 

昔はレクイエムと言えば挨拶も拍手もなかったが今では普通のコンサートと変わりない。演奏は素晴らしく盛大や拍手が贈られたが、正直なところ聴いていて後半は集中力が多少途切れた。やはりレクイエムは1曲だけで他の曲と組み合わせた方が良いと思う。白身の刺身ばかり食べてるようで食傷気味なのは否めない。指揮者もその雰囲気を感じたのか、聴衆に「お腹一杯ですか」と言葉をかけていた。

 


2019.
11.13(水)19:00 愛知県芸術劇場コンサートホール

出演

ズービン・メータ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

曲目

ブルックナー:交響曲第8番 ハ短調(ノヴァーク版)

 

先週に続きブルックナー8番。これまた何も言うことができない深い感動に浸った。こういう幸福な奇跡が続いて起こるものかと思った。

 

メータは体調が優れず来月の予定もすべてキャンセルと発表されているので、来日しても指揮できる元気があるか危惧された。ところが演奏が始まるとその心配はなくなった。口に出すのは憚れるが、ひょっとしたらこれが最後の来日、最後のブルックナーと思ったかもしれない。杖をついてよぼよぼ歩き椅子に掛けての指揮であったが、以前と変わらずきびきびした明確な指揮ぶりで、楽員も渾身の演奏であった。

 

メータは決して奇を衒わずオーソドックスだから、若い頃はちょっと物足りない感じがないこともなかった。しかしこういう人が何か一つ気持ちがこもった時には、その普通の中に特別な思いを感ずるものである。あの東日本大震災の時、多くの音楽家がキャンセルする中をメータは急遽来日し慈善演奏会を行った。その時のベートーヴェン第9は忘れられない。ラグビーだけでない。気持ちが一つになった時は奇跡が起こるものである。

 

ベルリン・フィルは改めて言うことでないが化け物みたいだ。演奏が始まった時、ベルリン・フィルでなくベルリン・フィルのブルックナーを聴きにきたのに、そのあまりにも完璧な上手さに気を取られてしまうことがあった。しかしそれも最初のうちだけで次第にブルックナーの世界に引き戻された。ブルックナーの神々しさには技術的に上手い以上に魂を入れることの方が大事である。今回はその両方が兼ね備わった稀有な演奏であった。

 

これ以上ない感無量の時であったが、それをぶち壊すブラボーを叫んだものがいた。(ウィーン・フィルでもあった) 演奏が終わった後間髪入れず叫んでよい場合もあるが、TPOを心得てもらいたい。分からなければ他の人がするまで待つマナーが欲しい。もうひとつ。今回バルコン、P席はぎっしりなのに、3回正面にかなりの空白があった。行きたくとも諦めた人が沢山いるのに、これはチケット・カテゴリー配分の失敗である。

 

なお、コンサート・マスターは樫本大進でなく一番若いベンディックス=バルグリー。この人、指揮者だけでなくトランペットやシンバルの大事な入りにも目をやっていた。ヴィオラ・トップは清水尚子。

 

 


2019.
11.10(日)15:00 豊田市コンサートホール

曲目

モーツァルト:ロンド イ短調 K.511

       ピアノ・ソナタ第8番 イ短調 K.300d

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第28番 イ長調 Op.101

シューマン:ピアノ・ソナタ第2番 ト短調 Op.22

ショパン:4つのマズルカ Op.24

     ポロネーズ第6番 変イ長調「英雄」 Op.53 

(アンコール)

バッハ:主よ人の望みの喜びよ

 

ショパン・コンクールに優勝してから10年以上経つがまだ30代半ばの若手である。これまで名古屋地区でも演奏したことはあるが、ふさわしいホールでのリサイタルはこれが初めてと思う。バラエティに富んだプログラムだが、同じプログラムのフェニーチェ歌劇場でのリサイタルがYouTubeに流れているから何か意図をもって綿密に計画したものであろう。

 

ブレハッチはコンサート全体をひとつに考えているようであった。モーツァルトは軽やかに、ベートーヴェンは抒情的に、シューマンはダイナミックに、そしてメインのショパンに移った。目玉のショパンは作品自体がもともと抒情に富んでいるからでもあるが、特に変わったところがあるわけでなく普通に弾いてるように感じた。平板であったというのでは決してない。何時聴いても良いと思う演奏であった。これがお国ものというのであろうか。アンコールはひとりで静かに祈っているようで、これがブレハッチのピアノの本質ではないかと思った。

 

日本人と変らない華奢な体格で容姿も女性にもてそうな感じがする。音楽も女性のような細やかさがある。豪快な音でなくむしろ弱音が素晴らしい。どんなに弱い音でも、輪郭がはっきりししかもまろやかな美しい音である。豪華でも情緒的でもなく理性的な優しさのある抒情性と言ったらよいか、こういう人はソロ・リサイタルが絶対良い。慎ましく自己主張をし過ぎない微妙な変化を感じ取る日本人には好まれるピアニストだと思う。

 

最近コンサートの数は増えてもホールがそんなに増えない。従来なら名古屋で開くものが豊田まで流れてきてるような気がする。名フィルの豊田定期も出来たし、テレビ局主催のコンサートもあるようになった。この日も満席に近く、終わってから電車の駅に向かう人が多かった。

 


2019.
11.7(木)18:45 愛知県芸術劇場コンサートホール

出演

クリスティアン・ティーレマン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

曲目

ブルックナー:交響曲第8番 ハ短調WAB108(ハース版)

(アンコール)

ヨーゼフ・シュトラウス:ワルツ「天体の音楽」作品235

 

聴き続けたい交響曲として唯一残ったブルックナー、その中でも8番は特別のものである。ウィーン・フィルとベルリン・フィルが来日し、1週間をおいて共に8番を演奏するまたとない機会が訪れた。私にとって海外オケのコンサートは多分最後かと思うが、それがブルックナー8番とはこの上ないプログラムとなった。

 

ティーレマンは長老を除いて現在最も人気のある好きな指揮者、重厚壮大でドイツものにかけては特別だと思う。休止を入れたり、特異なアクセントを付けたりで一層の緊張感を創っていると思うが、中にはそれが嫌味と思う人もいるようである。しかし今回のブルックナー8番を聴いて、そういう感じは全くしなかった。

 

大河のごとく大きな起伏をつくりながら滔々と流れていく。大地が盛り上がってくるようなクレッシェンドは相変わらずの凄さだが、よくやるティンパニーの強打など驚かすほど飛び離れたものでなかった。むしろ第3楽章の弦やホルンの美しさの方が引き立った。全体に音楽が途切れることなく自然に続き、これぞ神がかったブルックナーと思った。

 

今回初めてP席に座った。初めて気付いたことに指揮者の一挙手一動を(目や指先の動きまで)つぶさに観ることができ、指揮者の意図もオケがどのように敏感に反応するかもよく分かって勉強になった。この様子を見るとティーレマンとウィーン・フィルの相性が良いと言われるのも納得がいく。

 

アンコールは今年のニュー・イヤー・コンサートを思わせるシュトラウスのワルツ。踊るワルツでなく音楽の美しさを引き出すティーレマンのワルツで、これはこれで面白かった。最近ティーレマンはオペラでもワーグナーやリヒャルト・シュトラウスだけでなく、プッチーニとかカールマンなども振っている。それも悪くないが、昔の巨匠のように焦点を絞った人が今日いたら、それはそれでまた貴重な存在になると思う。商業主義には乗らないが。

 

私の長い音楽履歴のなかで、バイロイトのリング以来の記憶に残るコンサートであった。興奮はしなかった。単にティーレマンとウィーン・フィルが素晴らしいと思うだけでもなかった。ただただ大きな宇宙的壮大さの中に自分がいた。初めてのヨーロッパ、ミラノのドウモの中にじっと座り込んだ自分を思い出した。

 

 


2019.
11.1(金)19:00 電気文化会館ザ・コンサートホール

曲目

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第30番 ホ長調 OP.109

                          第31番 変イ長調 OP.110

               第32番 ハ短調 OP.111

 

以前このホールで河村尚子のシリーズ演奏会があったが、名古屋はそれ以来4年振りになる。古典から現代まで幅広く焦点を絞らずに取り上げてきたが、ここ1年くらいはベートーヴェンに集中している。今回はそのプログラムの一環としてベートーヴェン最後の3つのソナタである。

 

久々に聴く河村尚子は印象が変わっていた。女性らしい感性でいろいろな色彩の音を自在に出すのが特徴であったが、それに思考が加わって構成力が増したように思う。緻密にして明晰その上にふんわりした感性を漂わせた河村ならではのベートーヴェンであった。勿論これはベートーヴェンの作品自体によるとも言えるのだが。

 

ベートーヴェンがピアニストでなく作曲家として、交響曲や弦楽四重奏曲を書き始めて以降、ピアノ・ソナタの作風も人生経験と共に変化している。ドラマティック、ロマン的抒情的、内省的となっていくが、今回の3曲は言うまでもなく晩年に作曲されたものである。それだけに単にピアノ・ソナタというよりもベートーヴェンの人生の総決算でもある。それまでのすべてが収まっているだけでなく、それ以上にそのすべてを超越した世界に到達していると思う。

 

河村尚子のベートーヴェンは激しさ、抒情、内省そのすべてを持ち前のテクニックで素晴らしく表現したと思う。ただ私にはそれが別々に聴こえたように思った。全部を聴き終えてそこにはベートーヴェンの最後の姿心情が浮かんでこなかった。別の言い方をすれば河村尚子のベートーヴェンは、ベートーヴェンを聴くというより河村尚子を聴いた感が強かった。それだけ個性的演奏だったわけで、それが良いと思う人も多いと思う。ただ私が求めたのは別のベートーヴェンというだけである。印象が変わったと言ったが、10年後はまた成長して変わっているだろうと思う。今ここで演奏しておかなければ次のステップはないわけだから勇気あるトライだったと思う。

 

ベートーヴェン32番の後にアンコールは必要ない。ただ慣例だから考えた末、30番の3楽章最後の変奏だけを繰り返したのは良いアイデアだった。


2019.
9.30(水)18:45 豊田市能楽堂

曲目

バッハ:プレリュード―リュート組曲ハ短調BWV997より

    ファンタジア ハ短調BWV906

スカルラッティ:ソナタ イ長調K.208

                        イ短調K.175

バッハ:アダージョ―協奏曲ニ短調BWV974より

スカルラッティ:ソナタ ニ長調K.119

(休憩)

スカルラッティ:ソナタ へ長調K.6

            ヘ短調K.481

バッハ:イタリア協奏曲 ヘ長調BWV971

バッハ/ブラームス:シャコンヌ―無伴奏ヴァイオリン・パルティータ                                第2番ニ短調BWV1004より

(アンコール)

クープラン:「システリア」

 

会場へ行って驚いた。地味なチェンバロのリサイタルだがほぼ満席。マニアの人が結構多いと思った。ロンドーが舞台に現れた時また驚いた。髪を頭上に団子状に束ね、足袋を履き、ジーンズ・スタイルとは違った黒一色に統一していた。

 

ロンドーを聴くのは2年前の宗次ホール以来2度目。今回はバッハとスカルラッティの短い曲を集めたもので、演奏は休憩をはさんで休みなく続いた。全体として一つの作品のように演奏しようと思えば、曲毎に拍手を受けていたら気が散ってしまうのだろう。

 

チェンバロは基本的に音の大小をつけられないから、緩急と音のつなげ方でフレーズに表情をつけることになる。ロンドーはこれが実に上手く、坦々と弾くところは微塵もない。能楽堂だからこのことがはっきりと分かった。ただチェンバロを弾く人にとっては非常に勉強になると思うが、単に聴いて楽しむ者にとっては何とも響きが悪い。広さだけなら理想的な空間だが、音が遠くで鳴って臨場感が味わえなかった。

 

ロンドーはかっての貴族趣味の優美なチェンバロをディジタル時代の緊張した音楽を表現する為の一つの楽器に変えたと思う。演奏している姿は外見とは打って変わって真剣そのものであった。

 

スカルラッティはバッハやヘンデルと同時代だがあまり聴いていない。作品はシンプルで心地よいから聴き易いけれども、やはりバッハの方が良いと思う。シャコンヌはヴァイオリンで聴き慣れているので、ブラームスの編曲は全く異なる音楽に思えた。

 

今回は5回の全国ツアーの初日に当たるが、能楽堂での演奏はもちろんここだけ。チェンバロと能楽堂という東西の古い伝統文化を結びつけたコンサートは雰囲気的にとても良かった。ロンドー自身もサイン会に草履をはいて現れ、この雰囲気を十分楽しんでいるようであった。

 

 

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