くらはしのクラシック日記

~倶楽趣博人(くらはしひろと)の随想クラシックの思い出、Cafe Klassiker Hrを受け継いだブログです~

カテゴリ: 過去記事改定


15年程前になるが作曲家毎に代表作1曲を選んで記事にしたことがある。まずその一覧を記す。


バッハ:マタイ受難曲
モーツァルト:フィガロの結婚
ベートーヴェン:後期のピアノ・ソナタと弦楽四重奏曲
シューベルト:4つの即興曲
ブラームス:交響曲第4番
ブルックナー:交響曲第8番
ワーグナー:二ーベルングの指環
Rシュトラウス:ばらの騎士

ドイツ系ばかりだが当時の関心がそこにあったということである。今でもメインはドイツ音楽で変わってないが、ヘンデル、ハイドン、シューマン、マーラーが抜けている。それほど多く聴いてなかった為と思う。

そもそも1曲を選ぶ意味はあるだろうか。音楽芸術に絶対的普遍的価値があるわけでなく、ある人にとって価値があっても別の人には無価値のこともある。またその時その時代によって変わってくることもある。専門家による例えば作曲技法の革新性から見ればある程度普遍的なものが出るかもしれないが、それでも評価の一部に過ぎない。音楽の価値は人間にどれだけの勇気や癒し感慨を与えることが出来るかどうかであると思う。総合的評価は興行主の意図、学者や評論家の個別評価が基になって一般聴衆に広がっていった最大公約数的なものと思う。

上に挙げた曲は私なりの理由はあるが、体系的に整理したものでなくあくまで個人的感想で多分に好みの入ったものである。だから今見直してみてもそれ程大きくは変わってないように思う。第1に何の迷いもなく選んだマタイ受難曲、二ーベルングの指環、ブルックナー8番の3つは精神的深さと規模の大きさの点でこれ以上のものは出て来ないと確信している。第2に逆にもっと相応しいものがあると思うものもある。シューベルトはピアノ曲より歌曲から「冬の旅」を選ぶし、オペラ体験も増えたのでRシュトラウスなら「影のない女」にしたいと思う。

第3に大天才モーツァルトと楽聖ベートーヴェンは作品数もジャンルも多く選ぶのが容易でない。モーツァルトはオペラでなくピアノ協奏曲でもよいかもしれないし、オペラにしても政治批判っぽいところがあるフィガロよりも人間の本性を描いた「コジ・ファン・トゥッテ」の方に惹かれる。ベートーヴェンに至ってはもっと難しい。ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲の中でも好みにしろこれと絞り切っていないし、他に第9や荘厳ミサと思わぬでもない。ブラームスは新たに開拓したというより先人を踏襲した人なので、その意味で最後の交響曲4番は順当かと思う。

第4に載せなかった作曲家で、シューマンは先人から後人への橋渡しをした人、マーラーは先人を拡張拡大した人というのが私の理解である。シューマンは未だによく分からないので選ぶことはできないが、マーラーならブラームス同様最後の交響曲9番を選びたい。ヘンデルはオペラ流行の走りになった「アグリッピーナ」か「リナルド」だと思う。ハイドンは交響曲、弦楽四重奏曲他あまりにも数が多くほんの一部しか聴いてないのでコメント不能。

以上、私がこれまで聴いた音楽のひとつのまとめだが、一般の見方と違うかもしれない。普遍的評価でないから大きな意味はないが、ただ自分の好みにしろ記しておきたいと思った。これ以上追いかけるのは止めようと思う。



 
 もう20年近く前になるがHP(ブログはまだなかった)を立ち上げて間もない頃、ベルリン・フィルとウィーン・フィルの初来日の思い出を書いたことがある。つい先日両オーケストラを聴いて当時の演奏会の模様を懐かしく思った。ここにその文を一部改めたがほぼそのまま再掲したい。プログラムは大部分処分してしまったが、これは残しておいたので写真とともに。(前回のベルリン・フィルにつづいて)

 

 

 1959年9月26日夜半、伊勢湾台風が東海地方を直撃した。名古屋の最大瞬間風速46メートルと過去に経験したことのない暴風と名古屋港の満潮が重なり、高潮による死者5000人を超す大災害となった。大学の校舎も傾いて授業が出来なくなった。学生がボランティアで救援活動に走り回った。政治運動だけでなくこういう活動もやっていたのである。

 

 その1ヵ月後にカラヤン ウィーン・フィルが来日した。東京、大阪、名古屋で9回の演奏会を開いたが、このうち2回は急遽災害たすけあいの特別演奏会になった。

 

 ウィーン・フィルは1956年にヒンデミットと共に小編成で来日しているが、フル編成ではこれが初になる。オーストリア政府派遣の初の世界一周演奏旅行の途中、日本に寄った。この時カラヤン51歳。帝王として歩き始めた頃である。

 

 プログラムも極めて意欲的であった。ベートーベン、ブラームスが中心ではあったが、モーツァルト、シューベルト、ヨハン・シュトラウス、それにベルガーの現代曲も入っていた。東京公演初日がブルックナー8番というのも、当時のプログラムとしては異例と言ってよい。現代曲やブルックナーは恐らくほとんどの人が初めて聴いたのではなかろうか。

 

 名古屋公演はモーツアルト40番、シューベルト「未完成」とヨハン・シュトラウスであった。(今から思うと最もポピュラーなプログラムを持ってきたようだ) この3日前にカレル・アンチェル チェコフィルが来て、きれいな音色の前座を聴いていたし、何せ2年前にカラヤン ベルリンフィルの体験があるので、もう衝撃はなかった。確かに音色は素晴らしく柔らかで優雅できれいであったが、曲目のせいもあり音量がそれ程大きいと思わなかった。私の席が3階ずっと後方(鶴舞にある名古屋市公会堂)だったので、指揮ぶりも細かい動きまでは見えなかった。しかしシュトラウスのラデツキー行進曲だったと思うが、カラヤンが聴衆に挨拶をして振り向くといきなり間髪をいれず棒を振り下ろした。それでも演奏はおかしくなかったから、楽員はわかっていたのかもしれない。なかなかのショウマンだと思った。

 

 ヨハン・シュトラウスはとても楽しかったが、モーツァルトとシューベルトはあまり共感出来なかった。当時からすでに好みが違っていたと思う。モーツァルト40番はテンポが速くてメランコリックな感じは持てなかった。シューベルトも映画「未完成交響曲」の先入観もあって、美しくはあったが寂しさとか悲しさは感じなかった。その頃よくレコードで聴いていたベームの「未完成」の方にずっと惹かれた。

 

 カラヤンの指揮を2回見てこの人はショウマンだと思ったし、音楽も良いことには違いないが深く心に訴えかけるものが少ないと感じた。それ以降カラヤンから離れて、最近までCDもほとんど聴かなかった。現代の指揮者と比較して聴くとまた少し違う印象を持つようになったが、聴き方も好みも歳とともにが変わってくるものである。

 

                           (初稿2002/10/1改定)

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 もう20年近く前になるがHP(ブログはまだなかった)を立ち上げて間もない頃、ベルリン・フィルとウィーン・フィルの初来日の思い出を書いたことがある。つい先日両オーケストラを聴いて当時の演奏会の模様を懐かしく思った。ここにその文を一部改めたがほぼそのまま再掲したい。プログラムは大部分処分してしまったが、これは残しておいたので写真とともに。(ウィーン・フィルは次回に)


 


 
カラヤン ベルリン・フィルが初来日したのは1957年のことである。この年シベリウスやトスカニーニが亡くなったと聞くと、随分遠い歴史時代のようであるが、まだ50年経っていない。この3年前、カラヤンはN響の常任指揮者として単独来日しているから驚きである。何と言ったって世界の帝王がである。

 

 当時のプログラムを見てみると驚くことばかりである。僅か20日足らずの間に、北は仙台から南は福岡まで8都市で15回もの演奏会を開いている。新幹線も高速道路もない時代だから、東京・名古屋間ですら夜行列車を使うことが多かった。日本へ来るにも、東西冷戦の最中でシベリア上空を飛ぶことは出来ないから、大きく迂回することになる。北回りでも30時間以上かかっていたと思う。その上での国内の強行軍である。100人以上もの団員がよくぞ耐えたものと感心してしまう。

 

 もっと驚くことには、プログラムが11種類も用意されていて、しかも曲目の重複があまりないのである。プログラムはいわゆる超名曲もあったが、ワーグナー、リヒァルト・シュトラウス、ストラビンスキーなども入っていて、今日とあまり違わないバラエティーに富んでいた。私が4管編成のオーケストラを聴いたのは、この時が初めてである。

 

 名古屋では市公会堂で2回の公演があった。ところがステージが狭くて楽員が収まりきらない。急遽木製の角材と板を使って客席の方へステージを拡げてあった。初めて見たステージいっぱいに並んだオーケストラの姿は壮観であった。(後で聞いたエピソードだが、練習中に蒸気機関車の汽笛が聞こえ、列車を止めろとカラヤンは怒ったそうである。)

 

 ステージ後方に日独両国旗を掲げ、演奏に先立って楽員が起立し(チェロは座ったまま)国歌を演奏した。はじめに「君が代」が、次にドイツ国歌が。日本外務省とドイツ大使館が後援していたこともあり、このスタイルはその後も継承され、2年後のウィーンフィルの時も、5年後のコンセルトへボーの時も同じであった。

 

 私の席は1階前方右寄りのところで、カラヤンの指揮がよく見えた。それまで見たこともない指揮ぶりで拍子など全然とっていないのである。その時はゼスチャーとしか思えなかったが、それでいて演奏はピタリと合うのだから不思議だった。

 

 私が聴いたのは初日の方で、ベートーベンの7番、モルダウ、タンホイザー序曲であった。各パートがあたかも1人でひいているかのようによく合っていた。私の席からよく見えたが、第1ヴァイオリンの腕の角度と動きがひとつの機械のように同期して上下していた。迫力も凄かった。それまで聴いたオーケストラは、クレッシェンドでフォルティシモになると音が汚くなってしまったが、それが全然変わらずにどこまでも大きくなっていった。

 

 ベートーベンの7番では第3楽章中間部で木管のゆったりしたテーマが出てくるが、カラヤンが首をちょっと左に傾けて両腕を胸の前で表情たっぷりに回していたのがとても魅力的であった。また終楽章フィナーレのコントラバスのうねりとフォルティシモの迫力には興奮の虜になった。今でも7番を聴くと自分で音を作って興奮してしまう。タンホイザー序曲もあの朗々としたホルンの響きと奥深い力強さに酔った。モルダウの激流の迫力といい、プログラムが感動というより興奮さすような曲を集めたものだった。しかし音楽でこれ程までに衝撃を受けたことはその後もない。

 

 この演奏会はまたひとつの区切りになった。それまで作品だけを聴いていたが、演奏による違いを聴くようになった。大学に入ってからは主にレコードでいろんな演奏を聴くようになり、その中で自分の好みも次第に固まっていった。

 

                                     (初稿2002/9/13改定)


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歌舞伎とオペラはよく似ていると言われる。それに関しては永竹由幸著「オペラと歌舞伎」(丸善)が面白い。誕生、興行、役者から個別の作品まで両者を比較した堅苦しくない読み物である。しかし単に楽しむだけの素人にとっては、似てるところは考えなくては分からないが、違うところは舞台を観てるだけで分かる。

 

確かに歌舞伎は読んで字のごとく歌と踊りと演技の芝居で、この点ではオペラも同じである。しかも不思議なことに成立年代も1600年頃で同じと言う。決定的に異なるのは、歌舞伎では役者が歌わないしオペラでは役者が踊らないことで、両者とも役者がやらないところは他の人が受け持つ。こう考えると歌舞伎は観るものオペラは聴くものと思う。但し歌舞伎の伝統は変わらず受け継がれているのに、オペラの方は次々と新しいものが出てくる。

 

観ていて一番苦になるところは歌舞伎の女形とオペラのカストラートの問題である。両方とも風紀上の理由から男が女を演ずるようになったが、その後の発展は全く別の方向を歩んだ。

 

歌舞伎の女形は玉三郎を持ち出せば一番分かりやすいが、女以上に女らしい究極の美しさを表出している。ところがオペラのカストラート(後のカウンターテナー)はバロックの一時期、乳母など女役を演ずることはあっても主体はむしろ男役が多い。モンテヴェルディの「ポッペアの戴冠」を例にとれば、カストラートが演ずるのは主としてネロ、ポッペア、オットーネなど男役の方である。つまり女性の高い声を出す技法だけが残って持て囃され、女を演ずることはなくなってしまった。その代わり逆にオペラでは女が男役、所謂ズボン役を演ずるようになった。

 

ズボン役は演技上も効果的と納得がゆく場合もある。例えば、子供(「ヘンゼルとグレーテル」のヘンゼル)、可愛らしい男(「フィガロの結婚」のケルビーノ、「ばらの騎士」のオクタヴィアン)、或いは男装した女性(「フィデリオ」のレオノーレ、「ホフマン物語」のニクラウス)などでは女性が演じても面白いと思う。しかしリアルな男となるとどうかと思う。例えば、「こうもり」のオルロフスキー公爵、「皇帝ティートの慈悲」のセスト、アンニオなど視覚的にも可笑しく見える。このことは女性の声のカストラートが皇帝とか将軍を演ずる時感ずるのと同じである。オペラ愛好家としてはオペラのひとつの技法と割り切って歌を聴いているから大きな抵抗はないものの、舞台を観る限りにおいて違和感があるのは拭えない。オペラのカストラートやズボン役は歌舞伎の女形とは全然違うように感ずる。

 

オペラは聴くもの歌舞伎は観る者と思う一つの理由でもある。

 

                                   (初稿2014/10/8 改定)

1.はじめに

明治の文豪には音楽にかかわりのある人が多い。かかわり方は様々で例えば、鴎外はオペラの台本(オルフェオ)を書いているし、露伴は妹2人が東京音楽学校の教授、藤村は同校選科に1年入学しています。逍遥も音楽劇の台本(新曲浦島)を書いています。また彼等より若いが、荷風に至ってはニューヨーク、パリなどで音楽三昧の生活を送っています。これに比べると漱石は少ない。しかし明治時代の知識人にとって西洋音楽はひとつの象徴みたいなものでしたから、漱石の作品にもピアノとかヴァイオリンという言葉は少なからず出てきます。ただ誰かがピアノを弾くとか、何処からかピアノの音が聞こえるといった程度のことで、音楽そのものに踏み込んだものはほとんどありません。その漱石にワーグナーの曲名が出てきた時は何故と不思議に思いました。このエッセイは両者の接点とその出処を探ったものです。

 

2.漱石とワーグナーの接点

ワーグナーが出てくる作品は「野分」と「それから」の2点だけです。まずはその部分だけを抜き出してみます。

 

「野分」は明治40年(1907)の作です。主人公の高柳が資産家の息子中野に誘われて行った慈善音楽会の華やかな様子が詳しく書かれています。その一部です。

 

高柳君はこんな所へ来なければよかつたと思つた。友はそんな事を知り様がない。

「もう時間だ、始まるよ」と活版に刷つた曲目を見ながら云う。

「そうか」と高柳君は器械的に眼を活版の上に落した。

一、バイオリン、セロ、ピアノ合奏とある。高柳君はセロの何者たるかを知らぬ。二、ソナタ・・・ベートーベン作とある。名前丈は心得て居る。三、アダジヨ・・・パージヤル作とある。四、と讀みかけた時拍手の音が急に梁を動かして起つた。演奏者は既に臺上に現はれて居る。

やがて三部合奏は始まつた。満場は化石したかの如く静かである。

(中略)

途端に休憩後の演奏は始まる。「四葉の苜蓿花」とか云うものである。曲の續く間は高柳君はうつらうつらと聴いてゐる。ぱちぱちと手が鳴ると熱病の人が夢から醒めた様に我に歸る。此過程を二三度繰り返して、最後の幻覚から喚び醒まされた時は、タンホイゼルのマーチで銅鑼を敲き大喇叭を吹く所であつた。

 

次に「それから」ですが、これは明治42年(1909)の作です。主人公の代助は音楽の美しい世界を経験しなければ人間の甲斐がないと自らもピアノを弾く。その代助が兄の家へ行って嫂梅子とその娘にピアノを弾いて見せる場面です。

 

「代さん、此所ん所を一寸遣つて見せて下さい」

代助は黙つて嫂と入れ替わつた。譜を見ながら、兩方の指をしばらく綺麗に働かした後、「斯うだらう」と云つて、すぐ席を離れた。

それから三十分程の間、母子して交るがはる樂器の前に坐つては、一つ所を復習してゐたが、やがて梅子が、

「もう廢しませう。彼方へ行つて、御飯でも食べませう。叔父さんもいらつしやい」と云ひながら立つた。部屋のなかはもう薄暗くなつてゐた。代助は先刻から、ピアノの音を聞いて、嫂や姪の白い手の動く様子を見て、さうして時々は例の欄間の畫を眺めて、(中略)部屋を出る時、振り返つたら、紺青の波が摧けて、白く吹き返す所丈が、暗い中に判然見えた。代助は此大濤の上に黄金色の雲の峰を一面に描かした。さうして、其雲の峰をよく見ると、素裸な女性の巨人が、髪を亂し、身を躍らして、一團となつて、暴れ狂つてゐる様に、旨く輪廓を取らした。代助はヷルキイルを雲に見立てた積りで此圖を注文したのである。彼は此雲の峰だか、又巨大な女性だか、殆ど見分けの付かない、偉な塊を腦中に髣髴して、ひそかに嬉しがつてゐた。が偖出来上がつて、壁の中に嵌め込んでみると、想像したよりは不味かつた。梅子と共に部屋を出た時は、此ヷルキイルは殆んど見えなかつた。

 

とあります。両方ともワーグナの曲に関連した記述であることに気付きます。ここまで書くにはコピーでない限り実際に見聞きしてないと不可能のように思います。漱石は一体これをどこで知ったのでしょうか。

 

3.漱石と音楽のかかわり

漱石と音楽のかかわりについては瀧井敬子「漱石が聴いたベートーヴェン」(中公新書)があります。これは明治の文豪たちと音楽についての著述であり、漱石はその一部でしかも夏目漱石と寺田寅彦をセットにして扱っています。しかしこの書籍が調べ始める上で糸口となりとても参考になりました。

 

漱石は謡の稽古をしていましたが、西洋音楽はやらなかったようです。しかし漱石の弟子でもありヴァイオリンを弾く寺田寅彦(物理学者)の誘いで時々音楽会に足を運んでいます。また娘にはピアノを購入したり音楽会に連れて行ったりしていますから関心はあったのでしょう。寅彦の日記には「夏目先生を誘い上野音楽学校の演奏会に行く」としばしば出てきます。上野音楽学校とは東京音楽学校(今の東京芸術大学の前身)ですから、まずは「東京芸術大学百年史 演奏会編」によって、2つの作品が発表される以前すなわち明治42年(1909年)以前のプログラムを見てみました。

 

4.「野分」の演奏会の出処

はじめに「タンホイゼルのマーチ」ですが、「野分」発表(明治40年)以前に東京音楽学校でタンホイザーが演奏された記録は2回あります。最初は明治36年12月5,6日の定期演奏会です。その日のプログラムには最後に「管弦合奏、合唱 聖壽無窮(タンホイゼル行進曲)」とあります。2幕の入場行進曲に日本の歌詞(鳥居忱作詩 天子は永遠なり)を付けたものでしょう。もう一回は同じ曲が明治37年10月29,30日学友会恤兵(じゅんぺい)音楽会で演奏されています。(プログラム巻末写真1) 当時日露戦争の最中でしたから兵隊の義捐金を集めるために開かれたものです。小説に出てくる慈善音楽会とはこれを指していると思われます。会場の雰囲気は「奏楽堂に入り切れないほどの大盛況、着飾った令嬢や高襟男(ハイカラ)ばかり目立つ、音楽が最高潮に達した時には情激し血沸き三軍堂に大森林を進むの趣があった」と百年史には新聞雑誌の記事も紹介してます。これを見ると「野分」に書かれてる情景とよく符合しています。ただタンホイザー以外の曲がその日のプログラムと全く違います。またこの日演奏会に行ったという記録もありません。漱石は明治34年11月13日を最後にその後明治42年3月28日まで日記を書いていませんし、書簡や寅彦の日記にも出てきません。

 

次に東京音楽学校から離れてみます。当時の演奏会は東京音楽学校の他に、音楽家有志と学生が組織した同好団体による明治音楽会とか、陸・海軍の軍楽隊による日比谷公園の野外演奏会などがありました。そのプログラムの記録が「日本の洋楽百年史」の資料(新聞雑誌記事の集成)として残っています。それによりますと明治39年10月28日、明治音楽会のプログラムにタンホイザー以外の他の曲目が全部載っています。(巻末の写真2) しかもこの日は寅彦の日記に「夏目先生と上野音楽学校なる明治音楽会へ行く」とあります。ただこちらの音楽会にはタンホイザーの演奏がありません。

 

このことから漱石は2年の間隔があるものの、二つの演奏会から曲目を取捨選択して一つに結合し創作したと考えられます。これは歴史ではなく小説ですからよくあることと思います。

 

ここからは推測になりますが漱石は恐らく明治37年の恤兵音楽会にも出掛けタンホイザーを聴いていると思われます。それは音楽に詳しくないのに楽器の名前が出てくるからです。オーケストラの編成は正規でなかったと思いますが、「銅鑼を敲き大喇叭を吹く」という表現は実際に聴いていないと不可能です。また漱石は他の作品でも、情景描写を自身の目で見た上で書いていますから、この音楽会の特異な雰囲気の書き方もその場で体験したことを思わせます。

 

以上「野分」の方の音楽会は、明治37年の恤兵音楽会と2年後の寅彦と聴いた明治音楽会が基になっているというのが結論です。

 

5.「それから」のワルキューレの画の出処

一方ワルキューレに至ってはどこにも全く記載がありません。明治42年以前の演奏会で芸大史にワーグナーが登場するのは5回ですが、前記以外ではタンホイザーの歌合戦入場行進曲、ローエングリン前奏曲、カイザー行進曲の名があるだけです。また陸軍軍楽隊が日比谷公園で幽霊船(さまよえるオランダ人)や神タソガレ(神々のたそがれ)などの一節を演奏した記録は残っていますが、いずれにせよワルキューレは出てきません。当時は管弦楽の演奏がようやく出来るようになった頃ですから、これだけでもむしろ驚きでかなり背伸びしていたと思われます。ならばこれはワーグナーと無関係ではないか。しかしたとえ漱石が聴いていなかったとしても、音楽好きの代助が描かせたとある以上、ここはワーグナーと関係ありとみるのが自然だと思います。以下推論を進めます。

 

(1)留学中の漱石

では留学中はどうでしょうか。漱石は1900年(明33)10月から1902年(明35)12月までロンドンに留学しています。 したがって勉強の合間に音楽を聴く機会はあったと思われます。実際に帰国後「英国現今の劇況」と題した講演を行っていて、その記録が雑誌に投稿されています。そこには

 

今いったカべ(エに濁点)ント・ガアデン座ですが、これは純然たる芝居と言うよりも、寧ろオペラやファンシイ、ボールなどを演る処です。(「歌舞伎」明37./1、8/1)

 

とあって、劇場の様子全般を細かに説明しています。例えば、劇場にはマネージング・デレクター、ステージ・マネジャア、ミウジカル・デレクターがいること、席料がボックスからガレリイといくつかのランクに分かれていること、上等な見物人は皆燕尾服や肩を出した礼服を着ていること、幕の合間には酒とか珈琲を飲むこと、見物人は大変静粛なこと、ガレリイから舞台を見下ろすと山の上から谷底を見たようなこと、ガレリイ席への入り方等々、実に事細かに説明し、観るならガレリイが一番好いと言っています。こうして見ると当然ロイヤル・オペラ・ハウスの体験談と思ってしまいますが、漱石がオペラを観たという記録はありません。

 

漱石が訪れたのはコヴェント・ガーデンにあるHer Majesty’s Theatreで今のRoyal Opera House,Covent Gardenにつながる劇場でした。(現在ふたつの劇場) ただし漱石が留学した時はオペラをやらなくなった直後のことで、シェイクスピアなど演劇や後にミュージカルの劇場になっていました。(オペラ座の怪人で有名) ここで漱石はシェイクスピアの「12夜」を観ていますが、売り切れでガレリイで見たと日記にあります。(明34.2.23) その数年前に立て替えたばかりだったのでさぞかし綺麗だったでしょう。芝居は勉強の内だからかなり観たようで、他にもTheatre Royal,Drury Lainの体験はショックだったようです。このドルアリ・レイン劇場は派手な仕掛けのスペクタルを売り物にした大きな劇場(3000人収容)で、漱石はここでSleeping Beauty(漱石全集の注によれば実際はSleeping Beauty and the Beast 美女と野獣)を観て驚いています。日記には

 

生レテ始メテカカル華美ナル者ヲ見タリ(明34.3.7)

 

と書き、鏡子夫人宛ての手紙(3.8)にも舞台の様子を詳しく知らせています。前記の講演はこのような体験を踏まえて話していると思われます。ところがオペラやコンサートに行った記録は殆どなく、唯ひとつ寅彦宛てに

 

明日の晩は当地で有名なP attyという女の歌を「アルバート・ホール」へききに行く積り小生に音楽抔はちとも分らんが話の種故此高名なうたひ手の妙音一寸聴く様と思ふ(明34.11.20)

 

と書き送った一通があるだけです。パッティは当時のイタリア人ソプラノです。

 

どうせ話の種ならオペラも観ておけばよかったのにと思ってしまいます。ロイヤル・オペラ・ハウスのウェブサイト(Performance Database)によれば、漱石の滞在期間中にワーグナーの主要作品は全部上演されていますからその気になれば観ることが出来たはずです。他の劇場へはロンドン到着後の半年で10回も足を運んでいますからやはりオペラには関心がなかったと思われます。貧乏留学生で生活費の外はほとんど本の購入に当てていたこともあるかもしれません。ならばどうしてワーグナーを知ったのか興味が湧きます。

 

「それから」に出てくるワルキューレの描写は「野分」の演奏会のように具体的でなく、元々頭の中でイメージを膨らませた抽象的なものです。これならたとえ実際に視聴しなくとも人から聞いたり書物から知って書ける類です。逆に仮に「ワルキューレ」第3幕の騎行を聴いていたとするならば書かれているような連想をしても可笑しくないと思います。そうなるとこの後半のエッセイは面白くなくなりますが。

 

(2)明治の文豪とオペラ

明治時代は西洋文明を闇雲に吸収していた時代ですから留学者が多く派遣されています。当然実務分野が多いのですが、それでも明治30年代に入ると文豪たちが自費渡航を含めて次々と海外に出るようになります。鴎外は軍医として明治17年僅か22歳でドイツに渡っていますが、これは例外的で多くは30歳を過ぎてからです。漱石は年齢でなく年時で言えば早い方で明治33年9月にイギリスに出発しています。その後土井晩翠、島村抱月が同じイギリスに渡り、明治35年後半の約半年は3人ともロンドンに居ました。後で述べるワーグナー・ブームの火付け役になった宗教学者、姉崎嘲風もその時期ドイツからロンドンに来ていたのでそれを含めれば4人が揃っていたことになります。荷風は父親の命令で明治36年(24歳)アメリカとフランスに行き、上田敏もかなり遅れて明治41年に両国に留学しています。これらの人たちは多かれ少なかれ現地でワーグナーの楽劇に接しています。漱石はもし交流が深ければこの人たちからワーグナーの話も聞けたはずです。しかしロンドンでは神経衰弱で部屋に閉じこもることが多かったし、帰朝してからも寅彦などの仲間内で懇談するような関係ではなかったようです。ならば残るは書物で知るしかありません。

 

(3)明治のワーグナー・ブーム

ワーグナーの楽劇がフルで演奏されたのは戦後のことですから、明治時代は序曲など極一部しかも不完全な編成での演奏しか出来ませんでした。ワーグナーを完全な形で聴いた最初の日本人は恐らくドイツ留学中の鴎外と思われます。その後明治34年嘲風がベルリンで「ニーベルングの指環」を観るまで約13年間ワーグナーを聴いた日本人は記録になさそうです。(多分演奏家幸田延を除いて)

 

竹中 亨「明治のワーグナー・ブーム」によれば明治の音楽界は活字で感動するワーグナー聴かずのワーグナー・ブームであったと言います。その発端は明治29年鴎外と敏の間で繰り広げられたワーグナー論争です。鴎外は現地の劇場に何度も足を運んだのに対して、敏はその時まだ完全なオペラを観たことがありません。10代から音楽学校の演奏を聴き批評まで書いているとは言え、音楽を聴かずして音楽の議論に挑むのは如何にも乱暴な話です。その5年程後、上に記した嘲風の高山樗牛への私信が雑誌「太陽」に3回にわたって掲載され、これがセンセーションを巻き起こしました。自ら観た楽劇の感想を「全身栗して身の世にあるを忘れし」と感動して伝えていますが、音楽にはあまり触れていません。「ニーベルングの指環」と「タンホイザー」の物語で表されたワーグナーの思想をショウペンハウワとニーチェとの関連において論じた極めて哲学的なものです。この内容について記すことは私の能力を超えるところです。これに関しては中村洪介「日本人のワーグナー受容」に詳しく述べられています。ただここで言いたいのは漱石もこの種の議論を読んでいたであろうことです。漱石は「批評家の立場」と題して、

 

「タンホイゼル」を例に挙げて参考にこんなのもあるといふのは差支えない、けれども斯うなくては面白くないといふ語勢が見えては余り窄め過ぎた遣り方だ。(明治38年5月「新潮」)

 

と書いています。

 

(4)「ニーベルングの指環」の紹介記事

ここからは漱石がワルキューレについて連想できるような記述があるかどうか、「ニーベルングの指環」の内容がどう紹介されているかに止めます。

 

まず嘲風ですが、前述の私信「高山樗牛に答ふるの書」には

 

ニーベルンゲンの第一曲「ラインの黄金」にて、ラインの河底水碧く岩峨々たる間に、悪精アルベリヒがライン龍女の黄金を奪て愛を咒咀する陰鬱凄凉の場より、最後の曲に女主人公ブリュンヒルデが恋人ジークフリードの馬に乗り、其死の跡を追って火葬の猛火に投ずる最後の歌の所謂る「愛の全能の譜」が、総二世繋累慾望紛争を絶して、真の恋、我を棄て慾を抛ちたる真の愛が一切を融和し去る森嚴の終に至るまで、総て是れ人の精神の奥には絶対の力なり、絶対の合一根底あるを描き出して餘蘊あるなし(明治35年2-3月 「太陽」)

 

とあります。最初と最後だけで真中がポカンと空いています。僅か400字足らずのあらすじというより内容を極めて短く表しただけです。今日では絶対書けない名文ですが、ワルキューレの場面を想像させるには至りません。

 

抱月は劇場コンサートに通いつめオペラでも「ワリキューレ」や「神々のたそがれ」を含めかなり観ています。ワーグナー関連の書籍を買い込み逍遥に送った記録がありますが(渡英滞英日記)、自らワーグナーについて書いたものは見つかりませんでした。

 

荷風が観たオペラの数は上記二人の比でなく知識も音楽学者のように広い。「オペラをして最高の芸術たらしめたのは即ちワグネルである」と認めながらも、その思想哲学より愛欲の方に親しみを感じています。小説「あめりか物語」「ふらんす物語」の中にもオペラのことが出てくるほか、「西遊日誌抄」や雑誌記事などにも残っています。抱月と同じく「ワルキューレ」「神々のたそがれ」も観ていますが、「タンホイザー」「トリスタンとイゾルデ」のようには興味を示していません。「ワルキューレ」に関しても「ふらんす物語」の「舞姫」に「ワルキューレの夜には舞踏なければ、われは徒に、ソプラノの姿より数多き女戦士の一人一人を見まもりぬ。」とある程度です。荷風は当時リヨン・オペラ座のバレリーナに惚れ込んでいました。

 

それ以外にも嘲風より早い時期、オペラを観てもいない敏がワーグナーについて書いています。「ワグネルの楽劇」の中で「ニーベルングの指環」にも触れています。しかし「ラインの黄金」はかなり詳しく説明していますが、肝心の3作については

 

これより黄金の崇は全曲の骨子となって、悲壮の葛藤を生じ、主神ヴオタン(ヲに濁点)、其妻フリッカ、智神エルダ、英雄ジイグムント、ジイグフリイト等の物語を以てワグネルの世界観は歌われたり。(明治33年6月「文界」)

 

と書いているだけでブリュンヒルデの名前さえ出て来ません。また啄木も嘲風の書簡に感化され、ワーグナーの全貌を書こうと意気込みましたが結局序論のところで終わっています。

 

以上でわかるように漱石は文豪たちの記事にヒントを得てワルキューレを想像したとは考えられません。無理に考えればワルキューレをラインの乙女と同じに扱ったということですが漱石はそういうことはしないように思います。

 

丸善が洋書目録を刊行したのは明治13年ですから、ワーグナーに関する書籍は渡航者が持ち帰るだけでなく、直接取り寄せることもできたはずです。もう一度最初に戻って「それから」の文章を注意してみますと、そこにはいくつかのキーワードがあります。「大濤」「雲の峰」「素裸な女性の巨人」「暴れ狂う」、これらは「ワルキューレ」の台本を読んだとしてもそれだけでは出てこない、少なくとも大濤とか素裸というのは思いつかないと思います。今日の無茶苦茶な読み替え演出をする時代とは違います。

 

(5)ニーベルング伝説

「ニーベルングの指環」が中世北欧伝説に基ずくことはよく知られています。正確に言えば、中世初め(5~6世紀)の神話伝説を作者は不明だが13世紀にまとめられたものが一般に読まれています。ひとつはドイツ、他の一つは北欧で編纂され、両者は極めて似た内容を持っています。ドイツではジークフリートの英雄物語としてストーリー性のある「ニーベルンゲンの歌」となり、一方北欧(ノルウェイ、アイスランド)では前者程の一貫性はなくむしろそのまま集成した「エッダ」とか「サガ」になっています。また後者には前者にない神々やらワルキューレの話も含まれています。ワーグナーは北欧の「エッダ」の方に重きを置いていますが、「ニーベルンゲンの歌」にも影響されています。それが証拠にジークムントとジークリンデの息子がジークフリートと「ワルキューレ」の中でも「ニーベルンゲンの歌」と同じようにその名前を使っています。さらに石川栄作「<ニーベルングの歌>を読む」によれば、ワーグナーと同時代の作家が何人も「ニーベルンゲンの歌」をベースに戯曲を書いています。例えばフケー「大蛇殺しのジークフリート」もそのひとつで、内容が「ニーベルングの指環」と極めて似ているだけでなく、ワーグナーの指環4部作で「ジークフリート」を先に書いていることもそれを意識してのことと想像させます。

 

話を本筋に戻して、「エッダ」では宇宙から生まれた最初の生命体が神ユミルで巨人であったとしています。その血統を引く主神オーディン(ウォータン)の娘がヴァルキューレ(ワルキューレ)ですから巨人であっても不自然ではありません。彼女らは戦場で死んだ英雄たちをヴァルハル城(ワルハラ城)へ運ぶ勇ましい女戦士ですが、「エッダ」では男に言い寄る美麗の女としても登場します。例えば下記のようです。

 

「フンディング殺しのヘルギの歌」には

 

スヴァリンの高地を支配する勢いさかんな王にグラーンマルという者がいた。息子が多く、長男はヘドブロット、次男はグドムント、三男はスタルカドといった。ヘドブロットは、王の会議に出かけて、ヘグニの娘シグルーンを妻とすることにきめた。しかし、シグルーンはそれを知ると、仲間のヴァルキューレたちと、ヘルギをさがしに駒を空や海に進めた。ヘルギはロギ山でフンディングの息子たちと戦いをまじえたあとであった。(中略)ヘルギは戦いつかれて鷲岩のかげに休んでいた。シグルーンはそこへ来ると彼の頸にとびついて接吻し、ことの次第を物語った。

シグルーンは王が上機嫌なのを見てとった。ヘルギの手をとってくちづけし、身をよろった勇士に挨拶をした。ヘルギの心はシグルーンに惹かれた。

ヘグニの娘は心をかくさず、ヘルギの愛を求めた。その姿を見る前から、ジグムントの子をしたっていたのである。(中略)

ヘルギは軍船を集め、フレカステインめざして出帆したが、海上で大暴風雨におそわれた。空には稲妻が走り、船にも落雷があった。その時、空中に九人のヴァルキューレが馬を進めてくるのが見られ、シグルーンの姿もあった。嵐はしずまり、兵たちは無事に上陸した。

 

また「ヴェルンドの歌」にも

 

フィン族の王に三人の息子がいて、一人はスラグフィド、もう一人はエギル、三番目はヴェルンドとよばれていた。彼らはスキーを使ってけものを追って歩き、狼谷に来てそこに家をたてた。そばに池があって、狼池といった。ある朝早く、彼らはその岸辺で亜麻を織っている三人の女を見かけた。彼女たちはヴァルキューレであった。(中略)

その一人、世にも美しき乙女は、かがやく腕にエギルを抱いた。二番目のスヴァンフヴィートは白鳥の羽根をまとって、スラグフィドを抱き、その妹の三番目の乙女は、ヴェルンドの白い頸に手をまわした。

彼女たちは七冬のあいだ家にいたが、八冬めには心がさわぎ、九冬めになるともうたまらず、暗い森めざして飛び立った。

 

この二つの引用文をはじめに記した「それから」のヷルキイル(ワルキューレ)描写文と読み比べてみるとよく分かると思います。北欧ヴァイキングの国とは切っても切れない荒れる海の大波、神々の血を引く巨人ワルキューレたちの勇ましさと悩ましい女らしさの両面も「エッダ」によって納得の説明がつきます。漱石は「エッダ」を読んで部屋の欄間の画をイメージしたに違いないと思います。漱石がはたして「エッダ」を読んだかどうかは分かりません。しかし蔵書一覧を見ると(東北大学附属図書館漱石文庫データベース)下記のものがありました。

Volsuga saga

the story of Volsunga and Niblungs,w.certain songs from the Delder Edda

Scott library

tr. By E.Magnusson & W.Morris, ed. By H.H.Spar

内容を確認していませんが、ひょっとしたら裏付けがとれるかもしれません。

 

6.おわりに

以上長々と書いてきましたが結論として漱石「野分」の演奏会は実際に聴いた体験から、また「それから」のワルキューレの画はワーグナー作品の基になった「エッダ」から想像したものと考えられます。これが事実を踏まえて推測した結論です。

 

2016年12月9日が漱石没後100年です。それを機に漱石の小説をもう一度全部読み返してみました。と同時に「漱石が聴いたベートーヴェン」に刺激され、音楽をどこまで聴いたか突っ込んでみようと思いました。それが始まりでこのような書き物になった次第です。この程度のことなら誰でも最初に思いつく常識的内容かもしれません。調査としてもまだまだ足りないと思っています。しかし漱石とワーグナーの愛好者として両者を結び付ける意図をもって追い駆けたことに自己満足しています。これは論文でなくエッセイと言った所以です。お読みいただきました方々に感謝申し上げるとともに、もしお気づきの点をお教えいただければ筆者としてそれ以上の喜びはありません。

 

             (2017.2.28初稿、 2019.9.1改訂)




(写真)

漱石文献




 

(参考文献)

1  漱石全集 岩波書店

2  寺田寅彦全集 岩波書店

3  漱石が聴いたベートーヴェン 音楽に魅せられた文豪たち 瀧井敬子 中公新書

4  東京芸術大学百年史 演奏会編 第1巻 音楽之友社

5  日本の洋楽百年史 井上武士監修 秋山龍英編著 第一法規

6  音楽明治百年史 堀内敬三 音楽之友社

7  明治のワーグナー・ブーム 近代日本の音楽移転 竹中 亨 中公叢書

8  西洋の音、日本の耳 近代日本文学と西洋音楽 中村洪介

9  日本人のワーグナー受容 その歴史的展開(上)(下) 中村洪介 

   年刊ワーグナー1989 1990 

10 日欧・日亜比較演劇総合研究プロジェクト成果報告書 早稲田大学演劇博物館 

   明治・大正時代の音楽雑誌とオペラ受容 森佳子 (Web)

11 明治文化史9 音楽演芸編 洋々社

12 ロンドンの夏目漱石 出口保夫 河出書房

13 中央大学宇佐美毅研究室HP 「漱石とロンドン」 2006年11月

14 近代作家追悼文集成(5)夏目漱石 ゆまに書房

15 滝廉太郎 小長久子 吉川弘分館

16 明治文学全集40 姊崎嘲風集(高山樗牛宛書簡) 筑摩書房

17 明治文学全集43 島村抱月集(渡英滞英日記) 筑摩書房

18 定本上田敏全集第3巻(「ワグネルの楽劇」)教育出版センター

19 石川啄木全集第4巻 評論・感想(ワグネルの思想)筑摩書房 

20 荷風全集第4巻 あめりか物語 西遊日誌抄 岩波書店

21  荷風全集第5巻 ふらんす物語 附録 岩波書店

22 抱月のベル・エポック 明治文学者と新世紀ヨーロッパ 岩佐壮四郎 大修館書店

23 近代浪漫派文庫⑫ 土井晩翠 上田敏 新学社

24 ちくま文庫 中世文学全集Ⅲ エッダ グレティルのサガ 松谷健二訳 筑摩書房

25  ちくま文庫 ニーベルンゲンの歌 前後編 石川栄作訳 筑摩書房

26 講談社学術文庫 「ニーベルンゲンの歌」を読む 石川栄作 講談社

 

 

 



随分前のことだが、バイロイトに行くとなった時「ニーベルングの指環」(リング)の台本を読んで「古事記」にも似たような話があると思った。

 

言うまでもなく「古事記」は日本最古の書物で、天武天皇の勅命によって編纂された歴史書。「日本書紀」もあるが、こちらは天皇に都合の良いように大幅に脚色された感があり、神話を素朴に読むには「古事記」の方が面白いと思う。

 

「古事記」は神代から33代推古天皇までの系譜を追っているが、リングと対比するにその系譜を無視して物語の内容だけに注目した。リングは愛を「古事記」は天皇の権威の正統化を描くのが目的だが、にもかかわらず両者とも神と人間を扱っていて、英雄と愛の話が中心になっている。細かい部分はさて置いて似ているところを拾い出してみたい。

 

リングの天上、地上、地下の3つの世界は、「古事記」でもタカマガハラ(高天原)、アシハラノナカツクニ(葦原中国)、ヨミノクニ(黄泉国)の3つになっている。笑えてしまうのは、英雄ジークフリートが大蛇を殺すのはスサノオ(須佐之男命)がヤマタノオロチ(八俣大蛇)を退治するのと全く同じではないか。神剣の話も出てくる。ウォータンから授かったノートゥンクは、アマテラス(天照大御神)から代々受け継がれたクサナギノツルギ(草薙剣)でヤマトタケル(倭建命)東征の護り刀になっている。

 

愛の話も負けず劣らずである。ヤマトタケルの東征に同行した妃オトタチバナヒメ(弟橘比売)が荒れる海神を鎮めるため身を投ずる話は愛する人に身をささげるワーグナーの世界そのものである。近親相姦もあり。神代では多くの神々を生んだイザナギ(伊耶那岐命)イザナミ(伊耶那美命)、人代に入っては垂仁天皇の妃サホビメ(沙本比売)サホビコ(沙本毘古)、允恭天皇の皇太子カルタイシ(軽太子)カルノオオイラツメ(軽大郎女)、これらはジークムント・ジークリンデと同じ兄妹の間柄である。また妻が持つ嫉妬心は、ウォータンの正妻フリッカも、オオク二ヌシ(大国主神)の妃スセリヒメ(須世理毘売)や仁徳天皇の妃イワノヒメ(石之日売)も同じである。

 

魔法の話では、ジークフリートは小鳥に案内されてブリュンヒルデの岩山に達するが、これはカムヤマトイワレビコ(神倭伊波礼毘古命、神武天皇)が高千穂から大和に向かう時ヤタガラス(八咫烏)に先導されて吉野に入るのと同じである。またスサノオがクシナダヒメ(櫛名田比売)を生贄から救うため櫛に変身させる話もあったりする。

 

もっとも厳密には、例えばリングの地下は死人の世界でない、スサノオがオロチを退治したのは神剣でない(オロチから神剣が出る)、サホビメ・サホビコもカルタイシ・オオイラツメも双子でない、等々違ったところは多くある。しかしこうして並べてみるとたとえ偶然にしても面白い。

 

荒っぽい推論ですが、人間の考えることや感情は洋の東西、時代を問わずあまり変わらないのではないかと思った。 

 

                    (初稿2008/6/7の改定)

 


ワーグナーは自ら台本(それも韻を含んだ詩)を書いた恐らく唯一のオペラ作曲家で、文学者でもあり評論家でもある。評論の方は全集も出て有名だが、台本の他に3つの短編小説があることはあまり知られていない。それは小説の形をとった評論という内容の所為かもしれないが。

 

それはともかくその3篇は①「べエトオヴェンまいり」、②「パリに死す」、③「幸福な夕べ」(岩波文庫、高木 卓訳)で、いずれもパリで生活に困窮していた時に書かれたものである。この中に出てくる主人公「R」は架空上の人物になっているが実際はもうひとり出てくる「私」と同じく両方共ワーグナー自身である。

 

①の「べエトオヴェンまいり」はワーグナーが崇拝するベートーヴェンを「R」がウィーンに訪問する時の興奮を描いたもの。これは事実と無関係な想像上の物語。他の2編はいずれも「R」と「私」の対話になっていて、②は「R」が芸術の神聖を主張しつつも現実に失望して静かに死んでいくというオペラにもなりそうな話。③はモーツァルト、ベートーヴェンとワーグナーについての音楽評論と思います。

 

小説として読んで面白いのは「ベエトオヴェンまいり」だけです。他は哲学的芸術論でワーグナー特有の理屈っぽい言い回しで読み易くはありません。

 

因みにこの文庫本は1943年の戦時中に初版発刊され、現在絶版になっています。古書で入手するか図書館を利用するしかないが、ワグネリアンには一読の価値があると思います。  

 

                              (初稿2014/1/11の改定)

 音楽と書には意外と共通点があると思う。書は絵画、彫刻や工芸と同じく有形の芸術だが、それが無形の音楽とよく似ているのである。


芸術としての書は伝統的なものから絵画のように面白く見せるものまでいろいろある。私が習ったのは伝統的な漢字だが、漢字の書体には楷、行、草、篆、隷と5種類あり、写経のように一字ずつ区切って書いていくものもあるが、行草といって行書と草書を混ぜた連綿体つまり文字を繋げて書いていくものが昔は多かった。草書から発展したかな書きも同じである。日常生活で手紙や日記など速く書こうと思えば当然その書き方が適しているから、ワープロのない時代には普通に使われていた。その行草あるいはかなの流れが音楽と共通するところが多い。


第1に音楽も書も1回限りで同じものが2つとない。CDがあると言われるかもしれないが、CDは音楽のコピーであって音楽そのものではない。書は一度筆を下ろして書き始めれば絵のように上塗りできず修正がきかない。音楽も一旦出した音はそのまま聴く人の耳に届く。両者は共に一発勝負で、一期一会の精神があると思う。ただ書は何枚も書いたものから最良の決定版を人に見てもらえるが、そこは有形芸術の特徴である。


第2に細部を比較してみると、文字の大小は音の強弱と考えることが出来る。徐々に大きくすればクレッシェンド小さくすればディクレッシェンド。線の太さは音の高低、太いのが低音で細いのが高音。文字間を空ければ音の休止、文字を一字ずつ切ったり続けたりは音楽のスタッカートとスラーだと思う。筆の勢いはテンポで、線の特徴(滲み、擦れ、強さなど)は音色に相当する。行草とかなに限ってであるが、こうして並べてみると確かに似てると思う。


第3は流れの中に変化があり同時に自然でなければならないこと。書はいろんな要素を組み合わせて変化をつけていくが、これが難しい。熟慮の上何度も書き直し、これぞ自信作と思って師匠に見せると即座に駄目と言われる。結局始めの頃書いたものを出展したことが一度ならずあった。これは良く見せようと気負いがあって自然の流れを崩していたのだと思う。変化は必要だがあくまでも全体として調和のとれたものでなければならない。音楽も全く同じではないかと思う。若い人は特徴を出そうと変わったことをやりたがるが、青臭く感ずることが多い。書で言う「枯れた」と言う表現は音楽では「円熟した」と言うのだろう。若い人に年寄りじみた演奏を期待しないが、かといって変っていればいいというものでもないと思う。


芸術以外の分野では料理が音楽と似ているところがある。楽譜やレシピと言った基準になるものがあるのに再現すると2度と同じものはできない。聴いたり食べ終わった時点で消えてしまい記憶だけが脳中に残る。


音楽家の中には料理の得意な人が多いようだ。ロッシーニなど30歳そこそこで作曲をやめ、その後は料理で過ごしたと言われている。それは別格としても音楽家には仕事とか留学で生活の必要から料理に関心を持たざるを得ない人も多いはず。それも音楽と料理に共通するものがあるからと思えなくもない。


音楽、書、料理に拘わらず「良かった、良くなかった」と評することが多い。アンケートでもその言葉をよく目にする。しかし知識技量や感受性は人さまざまだから評価も人によって分かれる。良いか悪いかはある基準を設けてそれに合致するかどうかを見ることで絶対的なものではありえないと思う。「ニーベルングの指環」の中のジークムントのセリフ「私が正しいと思うことが他人には悪く思え、私には悪いと思えることが他人の同感を得る」とは正に真実である。いくら高級なマグロでも魚の好きな人は美味いと思うが嫌いな人はそう思わない。音楽でも従来ない技法で新たに創造した現代音楽が、嫌いな人には不快と感じ新しもの好きな人には面白いと写る。結局一般的に良いか悪いかは詰まるところ好きか嫌いかを言ってるのでないか。


私も音楽ブログを長く書いているがコンサートの感想を「良かった」と言うことが多い。楽譜も読めない楽器も弾けないただ聴くだけの私には専門的判断基準など何もない。好きだからそう書いてるに過ぎない。ただ他人に説明するには「何がどのようにどの程度良いと感じたか」を書かなければ意味ないと思っている。これは極めて難しい。いつも心がけてはいるがこんなこと言って大丈夫かと不安になることがよくある。でも言葉で表すことが音楽の聴き方にプラスになると思うし、それ以上に老化防止に効果があると割り切ってこれからも続けようと思う。  
                      
                      (初稿2006/1/9&2014/10/19の改定)

長くクラシックを聴いてきて最も強烈な印象が残っているものを上げると次のようになる。

 

ベルリン・フィル初来日(1957)

ウィーン・フィル初来日(1959)

ベルリン・ドイツ・オペラ(1966)

NHKイタリア歌劇団(1967)

ミラノ・スカラ座開幕公演(2000)

バイロイト音楽祭(2002)

 

この6つは迷うことなく出てくるが、これ以外となると何かの条件、例えばピアノとか国内オケとかの分類をした上で記録を辿ってみないと容易には思い出せない。

 

全部が古いものばかりである。最初の2つは学生時代、次の2つは就職で東京へ出た独身時代、最後の2つは退職して自適生活に入ってからのもの。一番新しいところでももう17年も前のことである。

 

昔のことはよく覚えていると言われるがそんなことはないと思う。学校で習ったことなどほとんど忘れてしまっている。覚えてるのは今も使う機会のあるものだけだと思う。だから強い印象を残すには別の理由がある。

 

心理学に初頭効果というのがあるそうだ。最初インプットされたものが記憶に残り易く、後の評価に影響を及ぼす。これだと思う。

 

カラヤンのベルリン・フィルはまだ高校生の頃初めて聴いた海外オケ。同じくカラヤンのウィーン・フィルは伊勢湾台風直後だったこと、メインプログラムがウィンナ・ワルツだったこと、偶然にも初めて買ったLPがカラヤンのウィンナ・ワルツ集だったこと、この3つが重なって記憶に残っている。ベルリン・ドイツ・オペラは2度目の来日だったが私にとって初の海外オペラ。イタリア歌劇団はラジオにかじりついて聴いてたのを初めてライブで観ることになった。どちらも当時よく通った日生劇場と東京文化会館の雰囲気と共に思い出す。ミラノ・スカラ座は初のヨーロッパ旅行で行った。開幕公演がどんなものかも知らず、またドウモを観て放心状態だった中で、唯々驚きであった。バイロイトは音楽目的だけの初の個人旅行。その後2度訪れてたが初回程の衝撃は受けなかった。

 

こうしてみると初めてと言っても音楽のことだけでないと気付く。むしろ音楽以上にその時の周辺の事柄が大きく記憶に影響していると思う。このことは私が音楽の専門家でないことに依るのかもしれないが、仮に今その演奏を聴いたとしたら、その後経験も豊富になっていることでもあり、恐らくそんなに興奮することはないと思う。

 

ただ間違いなく言えることは若いうちに最高の本物を聴いておくことは絶対必要だと思う。絵画でも書でも同じだが良いお手本で習った方がいいに決まっている。絵画を画集で観るのと同じく音楽をCDで聴いても勉強の助けにはなるが、本物を聴いたことにはならない。現に録音は良いが実演はあまりという話はよく耳にする。

 

これは一音楽ファンの個人的見解だが、若い頃にこういう世界最高の経験が出来たのは恵まれていたと思う。感謝の気持ちを忘れてはいけない。

                  

                   (初稿趣味のクラシックの思い出よりまとめ)

 

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